19
昨日と同じように街道を西に戻り、古びた木の橋を渡った。そこから少し川下に歩き、傾斜の緩くなった土手から河原に降りる。
「川の形も変わらんものだな」
遠くの川上を見つめながらゴンザが呟いた。
緩やかな傾斜が続く川辺を、昨日とは反対に遡っていく。見える景色も昨日とは反対だ。澱みなく流れる川は山の奥の方から続いている。右手の土手は崖になって段々と高くなっていく。そのぎらついた断面には有無を言わせぬ圧迫感があった。
「ナカハラからの川伝いに、キタガワ家の隠れ家があるのだ」
彼曰くそれは、峠の向こうにある(あった)キタガワ家の本丸が落城の憂き目に遭ったとき、主家の係累が逃げ延びるための避難所なのだという。家臣でも限られた者にしか知られていないが、キタガワ家の拠点としてはそこがナカハラから最も近いところにあるらしい。
「ひょっとして、ゴンザさんって結構偉い人だった?」
「殿の小姓を務めていたことがある。隠れ家のことを知ったのもその頃の話だ」
ゴンザの表情は固い。
件の侍がその隠れ家であの懐刀を見つけたというのなら。それは、キタガワ家に纏わる人物が家伝の守り刀を隠れ家に持ち込んだということである。主家の危急に際して使われるであろう隠れ家に、だ。そして、現代に至るまで取りに戻る者も現れなかった。
つまりは、そういうこと。
いずれにしても、百年以上前の話だ。
あるいはサナであれば、キタガワ家の顛末について何か知っているのかもしれない。しかし彼女は、その事について黙して語ろうとしなかった。
聞き出そうとは思わなかった。聞いてはいけないことだと思った。聞いてしまえば、何かが変わってしまう予感がした。
きっと、ゴンザも同じだろう。
歩き続けて、開けた河原に出る。自分がサナと出会った場所だ。改めて川辺の崖を見上げてみると、想像以上に高く感じられた。つい昨日、あの崖の上からここまで降りてきたのだ。我ながらよくやったものだと思う。
足を止めることなく、さらに上流へ。
渓流はさらに狭く、激しい流れになっていく。上流に進むほど、河原の石も大きくなる。角ばった、鋭利な断面を持つ大岩が目立つようになってきた。
「クロウ殿は」
「え?」
「クロウ殿は、何故、仕官しないのだ?」
唐突にゴンザから問われた。三人の先頭を歩く彼は、しかし、足を止めず振り向きもしない。
「侍でありながら、何故、主君を持たない。お主の剣の腕は確かなものだ。だが、主君のためでないのであれば、何のためにその技を磨いておるのだ?」
「……」
真剣、というより、ゴンザ自身も悩んでいるような口調だった。僅かに瞑目して答えを探す。
「今は、ただ強くなりたいと。それだけです」
「誰のためでもなく、否、己の利益のためですらなく、か?」
「いけませんか?」
「いや……」
くっ、と喉の鳴る音が聞こえた。どうやら小さく笑ったらしい。背中を向けて歩き続けながら、ゴンザは続ける。
「ただ我武者羅に強さを求める。某にもそんな頃があったものよ。だがな、鍛えれば鍛えるほど、己の剣に迷いが生まれてしまうのだ」
「迷い」
「強さとは、己の内で完結するものではない。敵を打ち倒すことで、初めて真に意味を持つ。では、敵とは何だ? 己は何を以て敵とする? 己の強さは何のためのものなのか。強くなろうとすればするほど、その問いは重く圧し掛かる。そして、その答えを得られなければ、迷いが剣を鈍らせるのだ。ともすれば、強くなるほどに迷い、迷うほどに己は弱くなる」
「強くなろうとして、弱くなってしまう、ですか」
ゴンザが頷く。
「剣に意味を求めるのは不純、と言う者もいるだろう。しかし、某はそれでは強くなれなかった。迷いを断ち切れたのは、殿がいたからだ。主君のために剣を振るうと心に決めてから、己の剣に迷いはなくなった。それが、某の得た強さだ」
口数が多いな、と思う。不安の裏返しだろうか。前を歩くゴンザの表情は、こちらからは窺い知ることが出来ない。
「よいか。如何なる達人であろうと、独りで出来ることはたかが知れている。主君に仕えるということは、梃子のようなものだ。小さな力から大きな結果を導く、その仕組みだ。あるいは、水路のようなものと言えるかもしれん。水の如く好き勝手に流れようとする個々の力を束ねて、民のために行き渡らせる。大名が家臣の上に立つ意味はそれだ。それが、大義だ。己の剣と人生を賭ける価値が、そこにある」
「そのためであれば戦を起こして、敵を斬る、と?」
「所領が増えれば民も潤う。それ以上に他国からの侵略を防がねばならん。政と戦は表裏のこと。主君の号令とあらば、何を躊躇うものか」
「うーん……」
言葉に熱が籠っている。思わず、掌を額に当てて天を仰いだ。
迷いのない剣が強いというのは、ひとつの真実だろう。しかし同じ侍であっても、やはり、自分と彼とでは生きる時代が違う。彼の語る合戦という言葉は、今の時代、とても遠くに感じられた。
自分も政治に詳しいわけではない。けれども土地さえ増えれば民が潤う、というのは無邪気が過ぎると思う。市井の人々だってそんな幻想は信じないだろう。
あるいは、ゴンザの時代では違っていたのかもしれない。事実として、大名同士が争いを続ける時代が存在したのだ。きっとその時代には大勢の人間を戦に駆り立てるだけの理由……、言うなれば、大義があったはず。
それが、失われた。
天下は定まったのだ。
近所同士(と表現していいかは分からないが)で強さを競っていた大名たちの上に、とんでもない強さを持った存在が現れたのだ。もしかしたら、それでみんな目が覚めたのかもしれない。あるいは、醒めたのかも。
天下人は様々な仕組みを作って大名たちを争わせないように腐心しているのだという。たとえ領主の間に諍いがあったとしても、合戦にまでは至らない。そういう世の中だ。
その一方で侍と呼ばれる人間は、今ではもっぱら秩序の内に組み込まれるようになった。ゴンザは領主の働きを水路に喩えたが、幕府によってより強固で巨大な水路が作られたようなものだ。無秩序な暴力を許さず、武力を管理することで、現代の太平は成り立っている。
それを堅苦しいと思ってしまうのは我儘だろうか。
「窮屈だなぁ」
「なに?」
思った時には口から出ていた。ゴンザも流石に振り返る。
幕府の在り方に反対するわけではない。
勿論、無為に刀を抜いて暴力を愉しみたいわけでもない。
けれども、剣を振る理由を、強さを求める一生を、他人に委ねたくなかった。
他者のために剣を抜くことはある。師匠を介して依頼を受けるのもそうだ。
しかし、そのためだけに剣の道を生きているつもりはない。
己の剣の理由を知らず、されども、己の意志で剣を振らずにはいられない。
結局のところ、自分はそういう人間なのだ。
「剣を振る理由を他人に預けて、その他人がいなくなったら、どうするのです?」
勢いのまま言ってから「しまった」と思った。それこそがゴンザの煩悶そのものだった。案の定、立ち止まった彼がこちらを睨みつけて押し黙っている。長巻の鞘を握る指に力が籠っている。刃を抜くためではない。強張った指が打ちひしがれたように小さく震えていた。
「うーん、侍っていつもそんなこと考えてるの?」
苦笑いのサナが首を傾げる。どこか呆れたような口調が今は有り難かった。
「難しいことは置いておいて、今の目的はあの子を見つけることでしょ。理由なんてひとまずはそれでいいの! ほらほら、足を動かす!」
「っと、ちょっと、押さないでくださいよ」
小さな手に背中を押された。足元の小石を蹴り転がしながら不格好に前へと歩き出す。首を回すと、悪戯っぽく笑うサナの顔が見えた。
ゴンザが毒気を抜かれたように溜め息を吐く。前方に向き直って歩き出した彼の背中は、さっきよりも背筋が伸びていた。




