14
払暁に目を覚ました。
快い寝覚めではない。柔らかい泥の中にいるかの如く、四肢の感覚が鈍っていた。確かめるように指先を動かして、意識を覚醒させていく。
部屋の中はまだ暗い。い草の匂いが微かに香っている。畳の目をなぞるように、静かに立ち上がった。
左手には愛刀。布団の上を見下ろす。大男は、まだ目を覚ましていなかった。寝息は穏やかで、規則正しい。起こさぬよう、そっと襖を開けて外に出る。
廊下に出ると空気が変わった。潤った冷気が喉を通り抜ける。肺を膨らませると、全身に新しい血が巡るのを感じた。錯覚かもしれないが、気持ちがさっぱりとしたことは確かだ。
少し考えて、襖を開けたまま、板張りの廊下を歩く。旅館の奥の方に進むと、小さな中庭に突き当たった。部屋から真っ直ぐ進んだ先である。庭先に下りても、開け放しの襖には目が届きそうだ。庭履きがあったので、拝借して地面に降り立つ。
それほど凝った中庭ではない。角ばった岩と、いくつかの小さな植木、それから石灯篭が並べられている。配置の意図はよくわからなかったが、ただ、庭の中央は何も置いていない空白となっている。そこまで歩いて、足を止めた。
振り返り、辺りを見回す。
隠すほどのことではないが、さりとて、見られたいものでもない。人の気配がないことを確認して、深く息を吐く。
刀を抜いた。
薄闇の中で、刀身が淡く輝く。もう一度、息を吸って、吐いて、止める。
構えは正眼。
自分はもう、宿の中庭にはいなかった。
視界に浮かぶのは茜色の宿場町。
夢想の光景。これは、昨日の焼き直しだ。十歩先には落ち武者の姿があり、長巻を抜き放って両手で構えている。表情は黒塗りで、その向こうを窺い知ることはできなかった。
落ち武者が腕を引き、長巻の切っ先を身体の陰に隠す。
それを最後まで見届けて、幻の己が地面を蹴った。
「――っ!」
全霊で前に駆ける。僅かに十歩。されども十歩。間合いは近くて、遠い。
男の二の腕で筋肉が隆起する。長柄の刃が大きく弧を描いて、横に薙いだ。
速く、そして、強い。
こちらの刃はまだ届かない。刀を立てて、長巻を受け止めた。
刃が噛み合う。
衝撃。
ただの一合で、刀身が砕けた。威力を殺しきれず、防御ごと跳ね飛ばされる。
足が浮く。肩から落ちて、地面を転がる。
頭上に銀の剣閃が走る。長巻の刃が斜めに浮かび、男の頭上に持ち上がった。
見上げた先に、大上段の構え。立ち上がるより早く、長巻の刃が振り落とされた。
「っは……」
暗転。痛みはない。視界が戻る。再び、十歩の距離で彼と相対している。
詰まった息を吐きだした。指先が震える。眩暈がする。
素晴らしい剣だった。小手先の技ではない。純粋に敵を斬るためだけに練り上げられた一撃である。戦場のための業だと直感する。あるいは、武者姿がそう連想させたのかもしれない。
その鋭さが、美しい。
吐いた息を肺に戻す。ゆっくり刀を巡らせながら、落ち武者の幻影を見据える。
(どうして、自分は勝てたのか)
膂力も間合いの長さも、相手が勝る。
しかし昨日の立ち合いでは、自身にとっての有利が重なっていた。背負った夕陽の逆光であったり、見回り衆の助勢であったり、あるいは落ち武者の持つ迷いであったり……。
そういった有利をすべて取っ払って、あの剣に挑みたかった。
(さぁ、どうする?)
こちらの刀を届かせるには、相手の間合いに踏み込まなくてはならない。長巻の迎撃は速く、重い。自分の膂力では、受け止めるのは不可能だろう。どうにかして去なすしかない。
得物の差、体躯の差、技量の差。彼我の隔たりを埋めることは出来ない。
肝要なのは、己の勝るところを知ることだ。
(……よし)
正眼から切っ先を僅かに下げて、大地を蹴った。
瞬時に落ち武者が反応して、丸太のような巨腕を振るう。
男の陰から切っ先が飛び出した。長巻が水平に半円を描く。
迫る刀身。横向きになったその腹に。
刀を差し込んで、添える。
ほんの少し刃を傾かせて。
持ち上げる。
僅かに浮いた軌道の下に。
身体を滑り込ませ。
長巻を後方に流した。
「ふっ」
息を吐き。
滑るように。
低く。
旋回して。
刃を、振り抜く。
寸断。
幻刀が、男の脛を切り裂いた。
「お見事」
高いところから声が聞こえた。茜色の世界が、霞のように掻き消える。
現実の自分は、中庭の中心で刀を振り抜いた形で静止していた。朝露に湿った地面に庭履きが深く沈んでいる。知らず、かなり強く踏み込んでいたらしい。
視線を持ち上げて振り返ると、縁側に落ち武者だった男が立っていた。
幻ではなく、本物である。身に纏った鳶色の浴衣は旅籠の番頭が枕元に置いておいたものだ。相変わらず髷が解けてしまっているが、落ち着いた表情からは昨日の狂乱ぶりは露ほども感じられなかった。
「おはようございます。身体の調子は如何ですか?」
「む……、うむ、かたじけない。万全ではないが、大事はない」
見られていたことには気づいていた。呼吸を落ち着け、刀を鞘に納めながら、こちらから挨拶する。男は意表を突かれたように言葉を詰まらせたが、すぐにはっきりと返答を返してきた。やや古風だが、明瞭な言葉遣いだ。声の内に理性がある。意志の疎通ができることを確認して、内心ほっとした。
男は腕を組んでこちらの腰のものを見下ろしている。やはり、背が高い。一段下の庭から見上げているので、なおさらそう感じた。その高低差に思い至ったのか、男は音も立てず縁側に正座する。それでようやく、目線の高さがつり合った。
「……今、某は斬られていたな?」
「わかるものですか」
ふん、と男が鼻から息を吐き出す。
「尋常に立ち合えば負けることはあるまいと、そう思っていたのだがな。どうやら某の自惚れだったらしい。……いや、しかし、見事な剣の冴えだった。是非とも名を伺いたいのだが、如何か?」
名を問われて、一礼する。
「クロウと申します」
「クロウ殿か。ふむ? 聞かぬ名だが、いったいどこの家中の者だろうか」
「いえ、仕官はしていません」
「なんと!」
男が大袈裟に驚いてみせた。芝居ではなく、素のようだ。正座したまま、背をのけ反らせて大きく口を開いている。
「それほどの腕があれば、引く手は数多であろうに。ううむ……、どうだ、これも何かの縁。当家の主に仕える気はないか? 殿には某から推挙しようぞ」
「えっと、それは……」
「いや、皆まで言うな。確かに今は我らキタガワ家の存亡を賭けた合戦の真っ只中。されども某が戦場に戻るからには、もはや決してニシヤマの連中の好きにはさせん。無事に我が主をお守りした暁には、必ずやその剣才を殿に伝えようとも」
その提案に今度はこちらが面食らった。男の表情は大真面目。冗談を言っているような雰囲気ではない。
つまり、彼はあくまでも正気で、今まさに合戦が起こっていると認識しているのだ。これには閉口せざるを得なかった。キタガワやらニシヤマやらという家名も、やはり、聞き覚えがない。少なくとも、この地の領主は別の名だったはずだ。
「あれ、クロウさん? そんなところで何してるの?」
返事に窮していると、サナがひょっこりと廊下に顔を出した。正座する男と庭先で立ち尽くす自分とを見つけて、不思議そうな顔で首を傾げている。
目線で助けを求めると、伝わったのやら伝わっていないのやら、とにかく彼女は大きく頷いて男二人を手招きした。
「ほら、ちょっとこっちに来て。朝ご飯の前に、確認したいことがあるんだ」




