八百八『無題』
腹の虫が喧しく鳴き立てる……仕様が無いさ、もう三日も何も食ってないんだから。
御江戸の街はどんな貧乏長屋でも飲める水が汲める井戸が有るから、水を飲んで凌いでるけれども、物を食わないと流石に永くは生きられない。
風呂も前に入ったのは何時だっただろう? 幸い今の季節なら井戸から汲み上げた水に濡らした手拭いで、身体を拭い頭から水を被って洗ってもそう簡単に風邪を引く様な事は無いが、もう一月二月もすりゃ、そう言う訳にも行かなく成るだろう。
……まぁ其れ以前に御飯食えにゃぁ、数日も保たずに野垂れ死にする事に成るかも知れないが。
と、そんな事を考えながらひもじい腹を手で押さえつけて、腐れ街から然程離れていない辺りの表通り一本横を歩んで行く。
この辺りは戦場で不具を抱えてしまった者や、碌で無しの親を持ってしまった所為で禄に飯も食わせて貰えない様な子供が御貰いをして居る事が多い場所で、奇特な御大尽が食べかけや食べ残しなんかを辻に放置してる事が良く有るのだ。
けれどもそうした物も好き勝手に持っていって良いと言う訳では無い、この辺を仕切ってる十手持ちの親分さんが、出来るだけ人死にを出さない様に食い物を貰う順番なんかを手配して居り、勝手に持っていった事がバレたら此処等を二度と歩けなく成っちまう。
此処まで行き詰まる前に仕事の一つでもすりゃ、風呂も好きなだけ入れたし、飯だって其処等の煮売り屋の屋台なんかじゃぁ無く、其れ相応の暖簾を構えた見世で良い物を食う事だって出来た筈である。
にも拘らずあーしが此処まで困窮して居るのは、巷を騒がす『暴れん坊お孫様』とか言う奴の所為だ。
いや、やってる事自体に文句は無い、彼奴が暴れたお陰で糞を煮込んだ様な下衆な役人達が何人も腹を切り、幾つかの武家が潰れ、空いた御役目には真っ当な武士が充てがわれたらしいし……古巣の孤児院もマシな状態に成ったと聞く。
けれどもそうした悪徳役人と結託していた悪徳商人の家まで纏めて潰されたのは頂けない、あーしの仕事はそうした腐った見世に忍び込み、御蔵に蓄えられた汚ぇ銭を掻っ払う事だったんだ。
産まれながらに氣を纏う事が出来たあーしは、多分どっかの武士の落し胤か何かだったんだろう。
んでも乳離れもしてない内に御包みに包まれたまま、孤児院の前に置き去りにされて居たと言う話だったのだから、母親に当たる女は乱暴されて孕まされたとかそう言う話だと思う。
恐らくは母親譲りの愛らしいと言えるらしい顔を受け継いだあーしは、七つに成ったら吉原の見世に売られると言われていたが、幸か不幸か父親譲りの氣の能力を使い、売られる前に孤児院から逃げ出し腐れ街へとやって来た。
其処で出会った七兵衛と言う義賊の親分に盗みの技と『盗みの三ヶ条』なんかの、盗人として生きて行く為の掟に付いて習い、暫くは彼の手下の一人として仕事を学んだ。
けれども氣功使いだと言う事が親分以外に知られると、親分はあーしに盗賊団から抜けて、独り働きをする様に勧めて来た。
団での仕事は結束が命、一人出来すぎる者が居ると其奴がやるだろうと手を抜く奴が出る、そうなったら団員全員一網打尽だ……と。
親分達は関所を通らずに江戸州から西に出る事が出来る秘密の抜け穴の在り処を知っているので、他藩まで遠征しての仕事が出来るから、と江戸州内の悪徳商人はあーしの仕事場として残してくれていたのだ。
花のお江戸の悪徳商人と成れば溜め込んだ銭は並大抵の物では無く、一度のお勤めであーしの様なこまい子供が暮らすにゃ十分過ぎる銭が手に入ったのである。
大きな銭を取らず必要な分だけを盗み出すと言う事も出来たと気が付いたのは此処最近の事で、あーしは自分の腕を誇る様にして千両箱を二つ三つと纏めて盗み、その中身を腐れ街周辺に住む貧しい家にバラ撒いた。
古巣の孤児院だけで無く、評判の良くない役人が仕切る孤児院にも、大人連中に気が付かれない様に忍び込み、買ってきた食い物を与えてやったりもした事が有る。
羽振りの良い時期には、そうして一回の盗みで得た数千両と言う銭を一晩で使い果たす様な真似をして居たが、幕府の役人達だって下衆な無能しか居ないと言う訳では無い。
火付盗賊改方と呼ばれる幕臣武士の中でも腕っこきを集めた連中に、あーしもとうとう目を着けられてそう簡単に仕事が出来なく成った上に、将軍様の孫だと言う者が悪党を懲らしめて回る様な事をした為に、獲物に出来る見世がどんどん減っているのである。
勿論、悪い噂を聞かない様な商家は幾らでも有るし、大きな額を盗み出さないならば、其処等の小さな見世から盗む事も出来る。
だが其れをした時点であーしは義賊では無く只の盗人に堕ちる。
盗人風情が何を偉そうに……と世間様は言うだろう、けれどもあーし等盗人にも格とでも言うべき物が有るのだ。
ましてやあーしは氣功使い、せこいコソ泥風情に身を堕とせば、腐れ街で生きてる様な屑としか呼べない様な連中にすら舐められる事に成る。
只でさえ真っ当に御天道様の下を歩む事すら憚り有る立場だと言うのに、屑以下の連中にすら舐められたなら行き着く先は、襲い来る屑連中を片っ端からぶっ殺し出てきた大物に今度は此方が殺されるか、素直に吉原へ売られていた方がマシな扱いかのどっちかだろう。
今思えばあーしは何故盗みなんて安易な稼ぎに手を染めてしまったのか? 氣功使いならばあーしの様なこまい子供でも鬼切りを生業にする事も出来たかも知れない。
けれども犯した罪は魂に刻み込まれる為に、鬼切り者と成る為の手形を作ろうとすれば、今までの盗みが露見して死罪に成るのは確定で、今更足を洗って真っ当な仕事に付く事なんか出来やしないのだ。
せめて七兵衛親分が江戸に居れば、今後の身の振り方を含めて色々と相談する事も出来たんだろうけれども、親分達は遥か西国に遠征して居る為に其れも出来ない。
盗んだ物を買い取ったり両替してくれる故買屋のおっちゃんは江戸に居るが、彼奴は決して盗人の見方なんかじゃぁ無い、利用出来なく成ったと見限られた盗人が彼奴の垂れ込みから足が付いて捕縛されたなんて話はゴロゴロ転がっている。
飢えてくたばるのが先か、其れ共火盗改にとっ捕まるか、南町奉行所の役人に捕縛されるか、将又此処等を仕切る十手持ちの手柄に成るか……そろそろ歩き回るのも辛く成ってきた。
せめて死ぬなら美味い物の匂いに包まれて死にたい、そう思ったあーしは裏通りを抜け出して表通りへと最早歩くと言うよりは引き摺ると言っても良い足取りで歩を進めて行く。
甘い餡子の匂いと、香ばしい何かが焼ける匂い、そして何処か懐かしい優しい香りに包まれ……あーしは意識を手放した。
「おいおい、儂の見世前でぶっ倒れるとか勘弁してくれや。折角軌道に乗った商いだってのに……縁起でも無い」
虎縞焼きと銘打った、薄いスポンジケーキに此の国特有の餡子と呼ばれる豆の煮物とバタークリームを挟んだ物は、幸いにして焼けば焼いただけ売れていく良い商品と成った。
此方の世界へ来る際に持ち込んだ宝石類を売った資金は既に回収し、後は日々食べていけるだけの稼ぎが有れば良いのだが、稼げるだけ稼ごうとしてしまうのは、長年商業都市を運営して来たが故に染み付いてしまった性なのだろう。
兎角、今日も元気に虎縞焼きを焼きまくる積りで、何時も屋台を出している場所で準備をして居る所に、ふらりと裏路地から現れた子供が目の前で倒れたのだ。
この江戸の街の君主は名君と名高い人物で、孤児達を捨て置く様な事をせず、皆が大人に成るまでしっかりと育てるのだ……と話には聞いては居たが、政は綺麗事だけじゃぁ動かない。
此処最近よく聞く『暴れん坊お孫様』の活躍で知れ渡った通り、幾ら上が優れた名君でも組織が大きく成れば成る程に、上の目を掻い潜り外道に手を染める者が出てくるのだ。
恐らくは此の子供も、そうした政の救い手から漏れた可哀想な身の上の者なのだろう。
だがだからと言って、儂が此の子供を育てる……と言う気には成らない、何せ儂は自分の息子を育て間違え先祖代々守ってきた国を傾ける原因を作ってしまったのだから。
「吉八さん……紗蘭から貰ったのが美味かったから、家族にも食わせようと思って買いに来たんだけれども……何か有ったのか?」
どうするべきか思い悩む儂の背に、聞き覚えの有る子供の声が投げかけられた。
うむ、彼の家は此の国では比較的強い権力を持つ家だった筈だ、ならば丸投げしてしまうのが最良の選択だ。
そう考えた儂は倒れ伏した子供を抱き起こすと、後からやって来た儂をこの世界へと導いた子供に託す事にしたのだった。




