八百七 志七郎、幕臣の生活事情を考え身内の夜の事情を知る事
江戸城東門から入って直ぐの場所、小普請組の屋敷が立ち並ぶ一角に新生豹堂家の屋敷は有った。
三十俵二人扶持と言う家格は、上様へのお目通り資格すら無い御家人の中でも、最下級と言える立ち位置で有り、用意された屋敷も其れに見合う小さな物だ。
とは言え武家としての体面を取り繕うのに必要な、最低限度の広さを有するその建物は、前世の世界の感覚で言えば『家』では無く『屋敷』と言って間違いないだろう大きさは有る。
屋敷自体は幕府から貸し与えられている物で店賃は無料だ。
と言うか……三十俵二人扶持と言う扶持米収入から、この規模の屋敷の店賃を引いたら多分其れだけで扶持米が消えて無くなるか、下手をすれば足が出るまで有り得るだろう。
三十俵二人扶持と言うのは、その武家としての収入分の三十俵の米と、体面を維持する為に二人の下男下女を雇う為に其の分の扶持米を幕府が出すと言う意味だ。
極めてザックリとした計算だが家の収入分で有る三十俵は、一俵が大体十六貫で市場での取引価格が九百六十文、三十俵で七両三朱五十文と言った額面に成る。
この計算は飽く迄も米の収穫時期に米問屋で米を買う時の値段なので、時期により前後するし、問屋が儲けを得るために利鞘を加えた後の額面なので、売る時には此れより安い値付けに成る筈だ。
食う為の米として考えれば三十俵即ち四百八十貫の米と言うのは十分過ぎる量と言えるだろうが、収入として考えるので有れば三十俵の米を売った銭は一家を支える収入としては心許ない額面でしか無い。
にも拘らず、此方の世界でも前世の世界でも武士の副業は基本的に認められていない……。
前世の世界の下級武士が実際にどうやって生活を維持して居たのかは知らないが、此方の世界の下級武士は幕府公認で有る稼ぎ方……即ち『鬼切り』で追加収入を得て生活して居るのだ。
なので小普請無役の武家は、強い奴が居る家程羽振りが良いと言って間違いない。
其の事を考えれば、江戸州内に限れば上から数えた方が早い強者で有る義二郎兄上率いる豹堂家は家格よりももっと広い屋敷を追加の銭を払って借りる事も不可能では無いのだが、今の屋敷でも郎党纏めて生活するにも十分な広さが有ると言う事でこの屋敷に住んでいる。
ちなみにこの屋敷には、豹堂夫婦とその子六人、望月夫妻に豚川夫妻、更には虎男とその妻、阿我屯とその妻……と五組の夫婦が纏まって生活していたりするのだ。
夫婦一組につき一部屋を確保出来るだけの広さと部屋数がこの屋敷には有る。
但し豹堂家の子供達が成長して行き個別の部屋を欲しがる様に成っていくと、部屋が足りなく成って行く様に成るだろうが……多分その頃までには何らかの大きな手柄を上げて、家格を上げより大きな屋敷を賜るんじゃないだろうか?
まぁ子供一人に一部屋を与えるなんて贅沢が当たり前に成るのは、向こうの世界でも平成を過ぎた頃合いに成ってからの話だし、今の段階で其処まで心配する必要も無いのかも知れない。
其れこそ町民階級の者達ならば六畳一間の長屋で、一家五人が暮らしてるなんてのも普通の話だしな。
決して安くない店賃を払って長屋の部屋を借りなければならない町民達に比べたら、幕臣は最下級の扶持米しか与えられない立場でも、一家と其処に仕える下働きの夫婦で暮らす分には十分過ぎる広さの屋敷を無料で貸し与えられるだけ恵まれていると言えるだろう。
一緒に火元国へとやってきた虎殿の両親は、江戸城から然程遠く無い場所に有ると言う細工物師が集まる長屋に部屋と作業場を借りてそっちで暮らしているらしい。
「御免下さい! 何方かいらっしゃいませんか?!」
開け放たれた門扉を見れば、全員が留守と言う状況は無いとは思うが、残っているのが火元語の解らない人だけだと少々困るかな? いや俺は北方大陸語も西方大陸語もお花さんに習って日常会話程度ならば困らないんだけどな。
お花さんでも東方大陸は南部と北部で其々別の言語が使われている上に地域毎の差異が多すぎる事で全ては解らず、南方大陸も帝国共通語は解るが其処に所属する国毎に違う言語全てを網羅して学んでは居ないらしい。
前世の世界の感覚で言えば、寧ろ一つの大陸で完全に言語が統一されている北方大陸と西方大陸の方が特殊で、東方大陸と南方大陸の方が普通だと思えたりもするがね。
なんせ日本も火元国も世界的に見て決して広いとは言えない国土の中でも、方言の類が極まって行くと殆ど別言語じゃねぇか? ってな具合に変化するしなぁ。
関西辺りはTVなんかのメディア露出も多い事も有って未だ解るが、東北の方とか訛りの強い御老人の言葉とか本気で何を言ってるのか理解する事すら難しいんだよね。
なお世界の中心で神々の住む世界樹が有る世界樹諸島では、世界樹の機能でこの世界で使われている全ての言語が即座に自動翻訳される為、神聖語と呼ばれる神々の言語が解らなくても問題無く意思疎通が出来るらしい。
世界樹の木片を利用して作られている手形を使えば、そうした機能を他の場所でも利用出来そうな気もするのだが、残念ながら手形には其処までの機能は搭載されていない。
「はいよ。どちら様……って志七郎の坊やじゃないかい。どうしたんだい? 旦那になんか用事かい?」
と、そんな事を考えながら少し待つと、玄関から顔を出したのは瞳義姉上だった。
「大きな声を出してすみません。子供達寝てるんですよね?」
子供達を誰一人としておんぶや抱っこをして居ない所を見ると、恐らく彼女達は今お昼寝の最中と言った所なのでは無いだろうか? そう察して少しだけ声を潜めながら謝罪の言葉を口にする。
「ん? ああ、お昼寝の最中だけれども気にしなくて大丈夫だよ。家の子達は旦那に似て図太いからね。一寸やそっとの騒ぎじゃぁ起きやしないんだから。お宮御前に聞いた話じゃぁ普通の家は夜泣きで苦労する物らしいけど、家の子は其れ無しだったからね」
二十八伯母上の船で火元国へと向かう途中でも、海賊相手にドッカンパッカンと大砲をぶっ放す様な海戦の最中でも、一度寝たらそう簡単には起きなかったと言うのだから、確かに大物感が有ると言うか図太いと言うか……判断に悩む所で有る。
「えっと……俺が界渡りの先で用意した土産を義二郎兄上の分渡し忘れてた事に気が付いたんで持って来たんです」
購入から二年近い時が経っては居るが、賞味期限が五年も有ると言う小豆味の羊羹と猪口味の羊羹を其々二箱ずつ、その他に望奴と豚面には家の家臣達に上げた不銹鋼の折りたたみぐい呑み、瞳義姉上には秘石の腕輪で有る。
「界渡りなんてアタシ等が海を渡るよりも余程キツい旅だっただろうに、態々土産物まで用意してたのかい? 本当に猪山の衆は義理堅いねぇ……。まぁアンタの場合は中身が居る分普通より余程そう言う部分が強いのかも知れないけどサ。ま、上がんなさいな」
一瞬驚いた顔を見せた後、苦笑いを浮かべながらそう言って瞳姉上は玄関の引き戸を大きく開き、俺を屋敷の中へと迎え入れてくれた。
「男連中は今日も戦場へ稼ぎに出てて残ってるのは、女子供だけなんだよ。船の上じゃぁ娯楽も禄に無くてサ。アタシみたいに子供の面倒を見るんじゃ無けりゃ、ヤる事位しか空き時間を潰せなくてねぇ。良那も羽韮ややこを抱えてんのサ」
望奴の女房で有る智恵里殿と豚面の妻の蘇弍亞殿が妊娠して居ないのは、二人がヘタレだったから……と言う訳では無く、陪臣とは言え武家の者で有る二人が祝言を上げる前に子供が出来て新郎妊婦となるのは恥だと自重した結果だそうだ。
此方に帰って来てからサクッと手続きを済ませて、家格に見合う程度の小さな祝言を上げる事はしたので後は時間の問題らしいが……他所様の夜の事情をおっぴろげに語るのは如何な物だろう?
いや旦那の弟だと言う事で完全に身内扱いだからこその話なんだろうが……と、そんな事を考えながら、俺は家臣達の夜の生活に付いて楽しそうに語る瞳義姉上の話を、義二郎兄上が帰って来るまでただじっと聞き流すのだった。




