八百九 志七郎、友人の悪癖を考え災害救助を思い出す事
……此れは一体どう言う状況なのだろう?
俺はただ義二郎兄上に渡し忘れて居た向こうの世界の土産で有る羊羹を届け、帰るついでに一寸遠回りして界渡りで火元国へとやって来た虎獣人の吉八さんがやって居ると言う銅鑼焼き屋で家の女性陣への土産を買って行こうと思っただけなんだが……。
虎縞焼きと暖簾の掛かった引き車型屋台の前で、虎獣人がガリガリに痩せこけた子供を捕食しようとしてる現場に出くわしてしまったのだ。
いや人の趣味趣向は其々だし、少女性愛も御稚児趣味も実行しなけりゃ犯罪じゃぁ無いとは思う……が、前世の世界では例え互いに思い合っていたとしても十三歳未満を相手にどうこうすれば自動的に強制猥褻罪が成立する為完全に違法と言える。
そして目の前で吉八さんが抱き上げているのは、どう見ても俺と同年代にしか見えない子供で……言い訳の余地も無く非合法だ。
「吉八さん……紗蘭から貰ったのが美味かったから、家族にも食わせようと思って買いに来たんだけれども……何か有ったのか?」
まぁ彼は同族にしか興味が無く、そもそも元居た世界で死に別れた妻に操を立てていると言う話を聞いているので、如何わしい事に及んでいると言う可能性は限りなく低いんだけどな。
「おお! 丁度良かった志七郎様! この坊主? 娘? いや人族の子供はどっちがどっちか儂にゃぁ区別がつかねぇんだが……兎に角此の子供が家の見世の前でぶっ倒れたもんだからどーすりゃ良いのかと思ってな」
うん……信じてたよ、信じてたさ、吉八さんはどっかの悪友とは違って、少女性愛の趣味は無いってな。
とは言え彼奴は彼奴でそ~言う趣味は飽く迄も二次元だけで、現実でどうこうする様な理性の無い真似はしないと断言していたけどね。
彼奴の家は近所の子供達にとっては文字通りの駆け込み寺で、手を出そうと思えば何時でも手の届く所に少女が居た訳だが、やらかしたと言う事は一度も無い。
……彼奴の家の中は付喪神だらけで、下手な真似をすれば間違いなく両親の耳に入っただろうから、出来なかったと言う方が正しいのかも知れないが。
兎角、今はそんな下世話な事よりも子供の身体の方が心配だ。
「っても、俺も医術の心得が有る訳じゃぁ無いからなぁ……パッと見て解る外傷が有りゃ霊薬飲ませりゃ済むかも知れないが」
と、そう言いながら吉八さんの腕に抱かれた子供の様子を見てみれば、痩せこけた頬に着物の隙間から見えるガリガリの肋骨……と、一目見ただけで飢えて倒れたのだろう事が見て取れた。
倒れる程に飢えて居ると言うならば、いきなり固形物を食わせるのは悪手だ、胃腸が弱っている状態だから上手く消化出来ず、下手をすると命を落とす事も有ると、東日本大震災の際に災害救助の応援に駆り出された時に指導された覚えが有る。
こう言う時に先ず飲ませるべきなのは『命の水』や『経口補水液』と呼ばれる代物だ、作り方は極めて簡単で『一度沸騰させた湯冷ましの水一リットル』に『大さじ四杯の砂糖』と『小さじ半分の塩』そしてお好みで『香り着け檸檬等の果汁』を入れるだけだ。
「吉八さん、屋台に砂糖と塩は有るよな? 後お湯を沸かせる薬缶か鍋!」
武光の活躍で江戸中の孤児院が梃入れされ、こうした不幸な子供と言うのは殆ど居ない筈なのだが、此処は腐れ街から然程離れた場所では無い事も有り、真っ当な福祉を受けられない様な立場の親を持つ子供が居ても不思議は無い。
恐らくは此の子も、そうした脛に傷を持つ者の子なのだろう。
「お、おう。砂糖も塩も当然有るぜ。んだけど湯を沸かす物は……お!? 丁度良い所に、おい! 其処の柿の葉茶売りの兄ちゃん湯を売ってくれ! 子供がぶっ倒れたのを手当すんのに必要なんだ!」
吉八さんの屋台は銅鑼焼きの皮を焼く為の鉄板は有るが、湯を沸かす道具は無いらしい。
代わりにと言ってはアレだが、彼の見世で買った銅鑼焼きを持ち帰らずその場で食べたい人を当て込んで、柿の葉茶売りや番茶売りと言った担ぎ屋台で茶を売る者達が近場に集まる様に成ってきて居るそうだ。
普段は八つ時辺りに吉八さんが見世を開き、其れに合わせてやって来る彼等だが、一寸早目に来てしまった柿の葉茶売りの若い衆が目に入り彼に声を掛けた。
「人助けってんなら銭は取らねぇ! 俺っちは茶は売るが人助けの為に必要な湯を売って銭を貰うなんて真似をすりゃ御天道様の下を歩けなくなっちまわぁな! 其れに爺さんの見世のお陰で毎日稼がせて貰ってるしな! 困った時はお互い様って事よ!」
流石は江戸っ子と言う事か二十歳そこそこ柿の葉茶売りの青年は、そう言うと自分の担ぎ屋台を開けて中の茶釜を露出させる。
「湯を五合半欲しい! 後其れを入れる物が必要なんだが……」
必要な湯の量を口にすると、
「それなら此の徳利が使えないかい? 一升徳利だから大きさは十分だろう? 見世の近くで人死なんざぁ縁起でも無い。助けれるなら助けてやって下さいな」
今度は近くの酒屋の旦那と思わしき身綺麗な商人が丁稚に空の徳利を持ってこさせてそう言った。
徳利の表面に書かれている原黒屋と言うのが其の見世の屋号なのだろうが……はらぐろ屋と読めば良いのだろうか? 場所柄と名前的に悪徳商人の匂いが漂う気がするが、マジでそうならそんな事は言わないだろう
「ああ、原黒屋さん、助かりやす」
どうやら吉八さんと原黒屋の亭主は顔見知りらしく、直ぐに彼が礼の言葉を口にする。
受け取った大きな徳利に柿の葉茶売りが、原黒屋の旦那が一緒に持って来た一合升を使って概ね五合半の湯を入れた。
「古の盟約に基づきて、我、猪河 志七郎が命ずる。我が朋友『四煌戌 紅牙 翡翠 水鏡』よ我が言葉に導かれ、現れ出よ!」
召喚の為の呪は省略出来ないが、定型文でも然程長い物では無い。
其の言葉に導かれ、屋敷に居た筈の四煌戌が光の繭とでも言うべき物の中から現れた。
「良し紅牙、此の瓶の中の湯を水鏡が放つ水より少し暖かい位の温度まで冷ますんだ! 『放熱』
「わほぅ!」
水弾や放水の様な水属性の魔法は、呪文を編む際に特に指定しない限り、冷水と言う程冷たく無く、かと言って生温いと言う程でも無いお腹に優しい位の温度で有る。
確か冷水と言うのが摂氏10度以下の水と言う定義が有ったと記憶して居るので、水鏡の放つ水は十五~二十度位の温度なのだろう。
対して今回は其れより少し暖かい位の微温湯と言える温度三十度から四十度程度に成るだろうと思える様に指示を出す。
そして其処に吉八さんの見世で使われている天秤を使って砂糖を一両より気持ち多めに、塩を一匁より少なめに用意し、徳利の中へと入れて木栓を締めて振り混ぜる。
大さじ四杯の砂糖が大体40g、小さじ半分の塩が概ね3gだった筈なので、此れで簡易経口補水液は出来る筈だ。
経口補水液は脱水症状を改善する為の物で、栄養不足を補う物では無い。
けれども此の子供の唇のカサつき具合や目の周りの窪み具合を見るに、脱水症状を起こしているのは明らかだ。
恐らく此の子は碌な食べ物も無く水だけで飢えを凌いで居たのでは無いだろうか?
だが幾ら水を飲んで居ても塩分なんかの電解質を摂取しなければ、浸透圧の関係で逆に水分を尿として出してしまうのだと言う話をやはり災害救助の現場で聞かされた覚えが有る。
なので先ずはこの経口補水液で脱水症状を改善し、其の後重湯なんかで胃腸に負担を掛けない様にして再び固形物を食べる事が出来る用にしてやるのが此の子を救う道の筈だ。
此の子が何処の誰で、何故倒れていたのかなんて事は取り敢えずはどうでも良い、詳しい事は助けた後に父上や母上に相談すれば良い話で有る。
助けられる命を見捨てる様な真似はしない、其れが俺を含め今此の場に居る者達の共通した思いだっただろう。
「おい、聞こえるか、おい! 目を覚ませ! そして此れを飲め、無理に一気に飲む必要は無い、少しずつで良いから此れを飲み込むんだ! 原黒屋さん一合徳利も貸してくれ! 此の子に飲ませるには多分其れぐらいの量が丁度良い!」
一度に飲ませるのは確かコップ一杯が適量だった筈で、其れに近しいのは一合徳利だろう。
軽く頬を叩きながら叫ぶ様に声を掛けると、微かに瞼を開き其の子はゆっくりと命の水を飲み始めたのだった。




