「記憶」の国 6
私は俯いたまま、指先を膝の上で握る。
「……「記憶」様。」
「なにかしら?」
「私は……どうして、こんなふうに生まれたんでしょうか。」
口にしてから、自分でも驚いた。
ずっと胸の奥にあった疑問。
けれど、誰かに尋ねたことはなかった。
尋ねたところで、答えなど返ってこないと思っていたから。
「私は、使者ですよね。」
「ええ。」
「でも、何も覚えていられない。」
「そうね。」
「だったら……私は、何のために生まれたんでしょう。」
返事はすぐには返ってこなかった。
「記憶」様はどこか遠くを見ている。
その姿を見ながら、私は思った。
きっと、この方なら知っている。
世界中の記憶を知っているこの方ならば。
この国で起きたことも。
遠い場所で起きたことも。
誰かが生まれたことも。
誰かが死んだことも。
ならば、私のことも。
きっと。
「……「記憶」様なら、分かるんですよね。
あなたの使者である私のことを。」
その問いに、「記憶」様は私を見つめた。
ほんのわずかに、空気が変わった気がした。
「私がいつ生まれたのか。」
私は一つずつ言葉を並べる。
「どうしてお作りになったのか。
どうして私だけ忘れるのか。
……全部、知っているんですよね。」
自分を知りたいという思いが、抑えきれないほど胸の奥で膨らんでいた。
けれど、自分でも分かるほど声が震えていた。
「教えてください。」
長い沈黙が流れた。
水面は大きく波紋を広げている。
やがて、「記憶」様が口を開いた。
「……分からないわ。」
私は目を瞬かせた。
「……え?」
「貴方のことを調べても、答えがない。」
その言葉の意味が理解できなかった。
「でも……」
私は思わず顔を上げる。
「記憶」様は、変わらない表情でこちらを見ていた。
「この世界で起きたことは、すべて私のもとへ還ってくるのは知っているわね?」
「はい。」
「だから、本来なら貴方が生まれた瞬間も残っているはず。」
「……はい。」
「けれど、ないの。」
その一言が、白い空間に静かに、そして重くのしかかった。
「貴方が生まれたという記憶も。
貴方が生まれるまでの記憶も。
貴方について記された記憶も。
……何もない。」
胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
何もない。
その言葉は、いつもの自分を思い出させた。
記憶できない私。
何も残せない私。
けれど今度は違う。
私自身ではなく――。
世界の側に、私の記憶がない。
「……じゃあ、私は。」
声が掠れた。
「私は、何なのでしょうか?」
酷く声が震えていた。今すぐにでも泣き出してしまいたいくらいだった。
「私もそれを知りたいの。」
初めてだった。
「記憶」様の声に、ほんの少しだけ何かが混じった。
好奇心。
それは、とても小さなものだった。
けれど確かに感じた。
「私にも、貴方が何者なのか分からない。」
「……「記憶」様にも?」
「ええ。」
私は言葉を失った。
この方にも分からない。
それが、怖いのか。
それとも――。
「だから、貴方自身で確かめてきなさい。」
「……確かめる?」
「この国の外へ出るの。」
私は顔を上げた。
「外……。」
「記憶」様は、微笑みながら静かに水面へ手を伸ばした。
すると水面に波紋が広がり、その中にいくつもの景色が浮かび上がる。
神秘で美しい湖。
夜空に浮かぶ巨大な月。
花々に囲まれた庭。
見たことがない生物。
そして、遠くに広がる黒い大地。
私は息を呑んだ。
「これが……。」
「神々の国よ。」
「記憶」様は、淡々と告げる。
「貴方がまだ知らない世界は、いくらでもある。」
「でも……どうして私が?」
「貴方自身を知るためよ。」
その言葉に、私は黙り込む。
「私は、この世界に存在する多くの情報を知っている。」
そう言って、「記憶」様は私を見つめた。
「でも、貴方については何も知らない。」
「ならば、私の知らない場所へ行けばいい。
そこには、私がまだ掴めていない貴方の情報があるかもしれない。」
「……他の神様なら、私のことを知っているんでしょうか。」
「分からないわ。」
即答だった。
「けれど、可能性はある。」
水面に浮かんでいた景色が、一つずつ消えていく。
「旅に出なさい。」
「……旅ですか。」
「そこで、貴方自身について何かを探してみるといいわ。」
「何か……?」
「ええ。それが何なのかは、私にも分からない。」
私はしばらく、その言葉を聞いていた。
自分を知るための旅。
そんなものが、本当に必要なのだろうか。
この国にいれば、何も困らない。
毎日を過ごして、何も覚えられず、それでも同じ日々を繰り返す。
ずっとそうしてきた。
けれど。
――このままでいいのだろうか。
海の中で見た、あの景色。
白くない空。
草原。
誰かの笑い声。
あれが何だったのか、私はまだ知らない。
そして、それを思い出したいと思った。
「……行きます。」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「自分が何者なのか。」
私は「記憶」様を見つめる。
「知りたいです。」
「記憶」様は、微笑んだ。
けれど、その表情にはどこか満足したような響きがあった。
「ならば、明日の朝にここを出なさい。」
「はい。」
立ち上がろうとした、そのとき。
「……そういえば。」
「記憶」様が、ふと思い出したように声を漏らした。
私は振り返る。
「一つだけ、覚えておきなさい。」
「……何でしょうか?」
「旅の途中で、貴方が何かを忘れても。」
静かな声だった。
「それを、失敗だと思わなくていい。」
私は目を見開いた。
「忘れることは、貴方の一部なのだから。」
その言葉が胸に残った。
けれど――。
その言葉さえ、いつか忘れてしまうのだろう。
そう思った。
それでも。
今だけは、忘れたくないと思った。




