「記憶」の国 5
しばらくして、その声が響いた。
「……忘れることは、嫌?」
思いがけない問いに、私は答えられなかった。
嫌なのだろうか。
それとも、もう慣れてしまったのだろうか。
考えようとしても、その答えさえもどこかへ逃げていくような気がした。
「……分かりません。」
「記憶」様は、しばらく黙り込んでいた。
「では、覚えていたいと思うことは?」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
覚えていたい。
その意味なら、分かる気がした。
「……あります。」
不思議と、その答えだけは分かった。
「何を覚えていたい?」
しかし、その問いには答えられなかった。
覚えていたいものがある。
けれど、それが何なのかは思い出せない。
どういう顔をして「記憶」様を見たらいいのかわからず、俯いたまま話す。
「……変ですよね。」
「どうして?」
「覚えていたいと思っているのに、何を覚えていたいのか分からないなんて。」
「変ではないわ。」
「……そうでしょうか。」
「ええ。」
水面に映る私の姿を眺めながら、「記憶」様は続けた。
「貴方は、他の使者と同じように、何かを覚えていたいだけなのでしょう?」
私は顔を上げた。
「……え?」
「何を忘れたのかは分からない。それでも、忘れたことだけは分かっている。
それは覚えていることの一つではなくて?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
確かに、そうだった。
何かを忘れてしまった。
その事実だけが残っている。
けれど、その「何か」には、もう手が届かない。
「それは、悲しいこと?」
問いかけは静かだった。
私は答えようとして――やめた。
悲しい。
たぶん、そうなのだと思う。
けれど、それすらも確信が持てない。
「……分かりません。」
また同じ言葉を口にした。
「私は、分からないことばかりです。」
私は、静かに笑った。
「何を忘れたのかも。
何を覚えていたいのかも。
それを悲しいと思うのかも。」
「でも。」
私は水面を見る。
そこには、何も残っていない。
「ただ……忘れたくなかった気がします。」
その言葉だけは、不思議なくらい自然に出てきた。
「記憶」様は、何も言わない。
ただ、私の言葉を静かに受け止めている。
やがて、その声が水面に落ちた。
「貴方は、不思議ね。」
私は顔を上げる。
「……不思議、ですか?」
「ええ。」
その声には、初めてほんのわずかな興味が滲んでいた。
「忘れることを知らない私に、忘れることの怖さを教えてくれたわ。」
「なのに貴方自身は、忘れることをまだ理解していない。」
私は何も答えられなかった。
「記憶」様が、ゆっくりと手を差し伸ばす。
「今は、それでいいわ。」
「……え?」
「無理に思い出す必要はない。」
その言葉に、私は目を瞬かせた。
この国では、忘却は許されない。
忘れたものは、取り戻さなければならない。
ずっと、そう思っていた。
なのに。
「記憶」様は、違うことを言った。
「忘れたものは、いつかまた貴方の前に現れるかもしれない。」
静かな声だった。
「その時まで、思い出さなくていい。」
私はその言葉を聞きながら、水面を見つめた。
何も映さない、静かな水面。
けれどその奥には――。
ほんの一瞬だけ、銀色の光が揺れた気がした。
私は、何も言わなかった。




