誰がための旅路
「……ここは」
目を覚ますと、見知らぬ場所にいた。
白ではない空。
見たこともない大地。
風に揺れる草原。
朧げな記憶が、脳裏をよぎる。
かつて、どこかで目にしたことのあるこの光景。
それなのに、いつ、どこで見たのかは思い出せなかった。
周囲を見渡してみても、ここがどこなのか、何があるのかさえ分からない。
ただ、奇妙なほど静かだった。
「やあ。ようやく目を覚ましたね」
不意に、声が聞こえた。
振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
見覚えがあるような気もする。
けれど、どこで会ったのか思い出せない。
「……あなたは?」
「ん? 僕のこと?」
少年は楽しげに笑うと、くるりとその場で回った。
次の瞬間、その姿が変わる。
少年だったはずの姿は、いつの間にか女性のものになっていた。
さらにもう一度姿を変え、今度は少女になる。
そして最後には、どこにでもいそうな男の姿へと落ち着いた。
「これなら、話しやすいかな?」
まるで何事もなかったかのように、男は微笑んだ。
「……あなたは、一体何者なんですか?」
「そうだねぇ……。君は、僕のことを何と呼ぶべきだと思う?」
「……分かりません」
「そっか。まあ、そうだよね」
男は満足そうに頷くと、どこからともなく椅子とテーブルを用意した。
その上には、紅茶とケーキが並べられている。
「せっかくだし、お茶でもしようよ。君と話したいことがたくさんあるんだ」
促されるまま、私は椅子に腰掛けた。
目の前の男は、紅茶を一口飲んでから、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、君は僕のことを何と呼ぶつもり?」
「……名前があるんですか?」
「もちろん。僕が決めた名前だけどね」
男はカップを置き、こちらを見た。
「僕の名前は、「混沌」。そう呼んでくれると嬉しいな」
「「混沌」……?」
「うん。『世界』なんて言う呼び名もあるよ。だけどそう呼ばれるのは、あまり好きじゃないんだよね。なんだか、僕だけがみんなのいる場所から切り離されているみたいでさ」
男は肩をすくめた。
「だから、僕は「混沌」と名乗ることにしたんだ」
その言葉を聞いて、私はふと、「法」の神の言葉を思い出した。
───世界なら、知っているかもしれない。
あの時は、何を知っているのかさえ分からなかった。
けれど、今なら分かる。
目の前にいるこの男こそが、「法」の神の言っていた『世界』なのだ。
ならば、この男……「混沌」こそが、私の知りたかった答えを持つ存在なのだろう。
「……あなたは、私のことを知っているんですか?」
「もちろん」
「混沌」は、あっさりと答えた。
「君が何者なのか。どうして生まれたのか。君がこれまで何をしてきたのか。全部ね」
「……全部?」
「そう。だって、僕はずっと君を見ていたんだから」
その言葉に、息が詰まった。
「記憶」の国で目覚めてから、私は様々な国を旅してきた。
忘却を恐れながら、それでも誰かと出会い、別れ、たくさんのことを知った。
その旅路を、「混沌」はずっと見ていたというのだろうか。
「……どうして?」
「どうして、か。そうだねぇ」
「混沌」は、紅茶を揺らしながら考えるような仕草をした。
「君が、僕の作った存在だからだよ」
「……え?」
あまりにも唐突な言葉に、私は何も言えなかった。
「君は、自分が何者なのか分からなかっただろう? 「記憶」の神に作られたわけでもない。いくつもの神の力が混ざり合った、不完全な存在。そんな君を作ったのは、僕なんだ」
「記憶」の国で、私は自分の存在について考えた。
どうして忘れてしまうのか。
どうして使者としての役目を果たせないのか。
旅を続けるうちに、私は自分が何かと混ざり合った、不完全な存在なのだと知った。
そして、「記憶」様から生まれたわけではないことも。
けれど、それだけだった。
自分が何者なのかは分かっても、誰が私を作ったのかまでは分からなかった。
まして、何のために生まれたのかなど、知る由もなかった。
ずっと、分からなかった。
「……どうして、私を作ったんですか?」
ようやく口にできた問いに、「混沌」は少しだけ目を細めた。
「面白そうだったからだよ」
「……面白そう?」
「そう。僕はね、退屈だったんだ」
「混沌」は、まるで他愛のない話でもするように続けた。
「何もないところから、神を作った。神だけじゃない。いろんな種族を作って、世界を形作って、色んなものを生み出したんだ」
神も、種族も、そして世界そのものも。
私は、その言葉を聞いて初めて、この世界の始まりを知った。
「でも、それでも退屈だったんだよね。何を作っても、何かが足りない。だから、今度は普通じゃないものを作ってみようと思ったんだ」
「混沌」の視線が、私へと向けられる。
「いくつもの神の一部を混ぜ合わせた、不完全な存在。どこにも属さず、どこにも当てはまらない、イレギュラーな存在。そんな君が、いったいどんなふうに生きるのか。どんなものを見るのか。どんな答えにたどり着くのか」
「混沌」は、楽しげに笑った。
「それを見てみたかったんだよ」
……そういうことだったのか。
私の旅は、最初から、「混沌」の余興だった。
私が何かを知ることも、誰かと出会うことも、苦しむことも。
すべて、「混沌」にとっては楽しみの一部だったのだ。
「……私が、どんな思いで旅をしてきたのかも、知っていたんですか?」
「もちろん。
君が「記憶」の国で何度も忘却を繰り返し、使者としての役目すら果たせなかったことも。
妖の国で、彼と出会い、名前を刻んだことも。
人形の国で、彼女の願いに応えようとしたことも。
妖精の国で、王の選択を見届けたことも。
「法」の国で、自分の存在について問い続けたことも。
「時」の国で、《現在》から花を託されたことも。
花の国で、その花を花神に届けたことも。」
「混沌」は指折り数えるように、私の旅を語っていく。
「そして、「死」の国で、自分の存在を取り除かれそうになったことも。」
「混沌」は、まるで昨日の出来事でも語るように、楽しげに笑った。
「……あの時、どうして私を助けたんですか?」
「死」の国で、私は確かに消されそうになった。
あの時、「混沌」が現れなければ、今頃私はいなかったかもしれない。
けれど、今の話を聞いたあとでは、あれが私を救うためだったのかどうかさえ分からない。
「混沌」は、きょとんとした顔をしたあと、すぐに笑った。
「助けた? うーん……そういうつもりだったわけじゃないんだけどなぁ」
「……どういうことですか?」
「だって、君はここまで来るはずだったんだよ?」
「混沌」は、悪びれる様子もなく言った。
「僕のところまでたどり着くはずだった君が、途中で消されちゃったら困るじゃないか。それじゃあ、面白くない」
その言葉を聞いて、私は何も返せなかった。
私が消えないようにしたのは、私のためではなかった。
「混沌」が、自分の楽しみを失わないためだった。
そう考えれば、あの時の行動にも説明がついてしまう。
「……そう、ですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど静かだった。
怒りがないわけではない。
悲しくないわけでもない。
自分の生まれた理由が、誰かの退屈を紛らわせるためだった。
その事実は、思っていた以上に重かった。
それでも――。
「……君は、僕を恨まないの?」
「混沌」が尋ねた。
私は、すぐには答えられなかった。
恨んでいないと言えば、嘘になるのかもしれない。
私の人生は、「混沌」の気まぐれから始まった。
私が旅をする理由さえ、「混沌」が決めていたのだから。
それでも、どうしても憎みきれなかった。
「……分かりません」
私は、正直に答えた。
「あなたのことを、許せるかどうかは分かりません。でも……」
ふと、「記憶」の国にいた頃を思い出した。
何度も忘却を繰り返した。
何も覚えていられず、使者としての役目も果たせない。
昨日と今日の違いさえ分からないまま、同じ場所で、同じことを繰り返す。
何も変わらない。
何も成し遂げられない。
あの頃の私は、何を思っていたのだろう。
目の前の「混沌」が抱いていた退屈を、私が本当に理解することはできない。
私と彼では、持っているものも、できることも、何もかもが違う。
それでも、ほんの少しだけ。
何も変わらない日々が続く苦しさを、私は知っているから。
「……あなたが退屈だったという気持ちが、少しだけ分かる気がするんです」
「混沌」は、意外そうに目を見開いた。
「へえ……?」
「でも、それと、あなたがしたことを許せるかどうかは、別の話です」
「……あははっ!」
「混沌」は、突然楽しそうに笑い出した。
「いいね、君! 本当に面白い!」
何がそんなに面白いのか、私には分からなかった。
けれど、彼は心底楽しそうだった。
「やっぱり、君を作って正解だったよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
私がどんな思いを抱いても、「混沌」にとっては、それすらも余興なのだろう。
それでも。
この旅で出会った神々も、交わした言葉も、そこで感じた思いも。
私にとっては、紛れもない本物だった。
誰かのために動いたこと。
誰かの言葉に救われたこと。
誰かの願いを知り、どうすればいいのか悩んだこと。
そのすべてが、「混沌」の思惑から始まったのだとしても。
私が経験したことまで、偽物になるわけではない。
「……それで、君は何を望む?」
「混沌」が尋ねた。
「ここまで頑張ったんだ。君の望みを一つくらい、叶えてあげるよ」
その言葉に、私は顔を上げた。
望み……か。
今までの旅を通して、私はたくさんのものを知った。
けれど、まだ知らないこともある。
まだ、確かめたいこともある。
そして、私は今、ようやく自分を生み出した存在と向き合っている。
ならば───私は、ゆっくりと口を開いた。
「私は……私の願いは――」
ここまで『神代観測録』を読んでくださり、ありがとうございます。
私自身、物語を文章にするのは初めての経験だったため、拙いところや至らないところもあったと思います。
それでも、こうして最後まで書き上げることができたのは、読んでくださった皆様のおかげです。
この物語は、千夜が自分自身について知るための旅であり、同時に、神々について知っていくというテーマで書いていました。
千夜は混沌によって作られた。それは、彼にとっては気まぐれで退屈しのぎに過ぎないのに対し、千夜にとっては生まれることも旅を通して神々の国について知っていくことも本来ならありえないこと。だからこそ、彼女は混沌を憎むことが出来ないという葛藤と共に、彼女が最後何を望み、願ったのか。それは実は決まっているのですが、読者の皆さんの想像にお任せします。それも醍醐味なのかなって。
それから、神は生まれながらに自分の役目を持っている。けれど、役目を全うすることと、自分の守りたいものを守ることが、必ずしも両立するとは限らない。時には、その二つが相反し、どちらか一方しか選べなくなることもある。そうした残酷さや、自分の役目に囚われている神々の姿を、千夜の旅を通して読者に伝わるように書くことは、改めて難しいと感じました。
そして、まだ気になることや謎として残っているのもあると思いますが、次のお話で書きたいなと思っているので是非、引き続き読んで頂けたら幸いです。
千夜と神々の物語を、最後まで見届けてくださり、本当にありがとうございました!




