「時」の国 7
「……花神だ」
男はそう言って、私に花を託した。
私は鉄格子越しに、その花を見つめる。
「……花神に、これを渡せばいいんですか?」
「ああ」
男は短く答えた。
私は花を両手で包むように持つ。
「あなたは……花神のことを知っているんですか?」
「ああ」
少しだけ間を置いて、男は答えた。
「長い間、ずっと一緒にいた」
その言葉に、私は男を見る。
「……大切な人なんですか?」
男は答えなかった。
ただ、少しだけ視線を落とした。
「……あいつが、どんな顔で笑うのかも知ってる」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
「どんな時に無理をするのかも。何もないふりをして、大丈夫だって言うことも」
私は黙って聞いていた。
花神が、どんな神なのか。
私にはまだ分からない。
けれど――この人にとって、とても大切な存在なのだということだけは分かった。
「……あなたは、花神を救いたかったんですね」
そう言うと、男は顔を上げた。
一瞬だけ、驚いたような表情を浮かべる。
けれど、すぐに目を逸らした。
「……ああ」
それだけだった。
私は花を見つめる。
白い花。
不思議な花だった。
枯れているようには見えない。
それなのに、どこか普通の花とは違う気がする。
「この花には、何か意味があるんですか?」
「……ない」
男は答えた。
「ただ、渡してやってくれ」
「分かりました」
私は頷いた。
その時だった。
遠くから、足音が聞こえてきた。
男の表情が僅かに変わる。
「……もう行け」
「え?」
「早くしろ」
先ほどまでとは違う、焦った声だった。
「誰か来るんですか?」
男は答えなかった。
ただ、鉄格子の向こうへ視線を向けている。
やがて――遠くから、女の声が聞こえた。
「《現在》?」
「……っ」
男――《現在》の表情が強張った。
「いいから、早く行け」
私はその声の主を知らない。
けれど、《現在》の様子を見れば、ただ事ではないことだけは分かった。
私は花を抱え直す。
「……分かりました」
《現在》は何も言わなかった。
私はそのまま牢獄を後にする。
長い階段を上っていく。
一段。
また一段。
来た時と同じはずなのに、なぜか少しだけ長く感じた。
手の中には、一輪の花。
私はその花を見つめる。
「……花神」
まだ会ったことのない神。
けれど、《現在》があれほど大切にしているのなら。
きっと、この花には何か意味がある。
私はそう思いながら、花の国へ向かって歩き始めた。
□□□
「契約成立だ」
その声に、私は静かに頷いた。
目の前にいるのは、まだ名を持たぬ新たなる神。
この契約を知る者は、二柱しかいない。
新たなる神にとっては、自らの地位を確かなものにするため。
私にとっては、長きにわたって背負い続けてきた役目を手放すため。
互いの望みが一致したからこそ、この契約は結ばれた。
「これで……私も、やっと神の役目から解放されるのね」
そう呟くと、自然と笑みがこぼれた。
生きることにも。
死ぬことにも。
もう、疲れていた。
何度咲いて。
何度散って。
何度生きても。
終わることのない繰り返しに、私はもう疲れ果てていた。
それでも、花を愛する者として、花という存在だけは残したかった。
だから最後まで、自分にできることをする。
「ごめんなさい……《現在》さん」
その声は、誰もいない場所へ静かに消えていく。
私のために、法を犯してまで、救おうとしてくれた貴方。
そんな貴方と、こんな形で別れることになるなんて。
貴方は怒るかしら。
呆れるかしら。
.....失望してしまうのでしょうね。
「……それでも、いい」
私は目を伏せる。
「いいのよ」
私は、最低な神。
神でありながら、その役目に嫌気がさした。
何のために生きているのかも。
何を望んでいるのかも。
いつしか、自分自身のことさえ分からなくなっていた。
それでも──頬を、一滴の雫が伝う。
それは土へ落ち、花の根へと染み込んでいく。
まるで、最後に与えられた命のように。
「それでも……最後に」
声が、僅かに震える。
「ありがとうって、伝えたかったな」




