「記憶」の国 3
使者の後ろを歩きながら、私は何度も白い塔を見上げた。
塔の奥へ進むことは、ほとんどない。
使者たちは記憶を捧げると、それぞれの役目へ戻る。
その先へ進む理由など、誰にもないからだ。
静寂だけが続く。
足音さえ、不思議なほど響かなかった。
やがて、一枚の大きな扉の前で使者は立ち止まった。
白く、継ぎ目すら見えない扉。
まるで壁そのもののようだった。
「ここから先は、一人で。」
そう言うと、使者は一歩下がる。
私は扉を見つめた。
その向こうに、「記憶」様がいる。
胸の奥が小さく波打つ。
なぜ呼ばれたのだろう。
私は何かをしてしまったのだろうか。
それとも──。
考えようとしても、答えは浮かばない。
「入りなさい。」
不意に、声が響いた。
私は息を呑む。
辺りを見回しても、誰もいない。
けれど確かに、その声は私へ向けられていた。
静かで、澄み切った声。
感情は感じられない。
それなのに、不思議と冷たくはなかった。
私はゆっくりと扉へ手を伸ばす。
触れた瞬間、音もなく扉が開いた。
その先に広がっていたのは、どこまでも白い空間だった。
壁も、柱も、天井さえ見当たらない。
ただ、白だけが続いている。
思わず一歩踏み入れる。
背後で、扉が静かに閉じた。
「もう少し前へ。」
また声が響く。
私は導かれるまま歩き続ける。
どれほど進んだのだろう。
ふと足を止めた。
目の前には、小さな水面が広がっている。
先ほど見た"記憶の海"とは違う。
鏡のように静かで、どこまでも透き通っている。
その水面には、私の姿だけが映っていた。
「そこに座りなさい。」
私は言われるまま、水辺へ膝をつく。
やがて、水面に小さな波紋が広がった。
その中心から、「記憶」様の姿がゆっくりと浮かび上がる。
こちらを見つめ、穏やかな声で問いかけた。
「……貴方は、忘れるのね。」
私は小さく頷く。
「はい。」
「忘れるとは、どんな感覚なの?」
その問いに、私は言葉を失った。
忘れる。
それは、私にとって当たり前のことだった。
だからこそ。
どう説明すればいいのか、分からない。
「……忘れる、って」
言いかけた言葉が止まる。
「記憶」様は、ただ静かに答えを待っていた。
試しているわけでも、からかっているわけでもない。
本当に知らないのだ。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
使者は、神の一部。
神の意思を運び、その身をもって神の役目を支える存在。
だから私は、私たち使者こそ神に最も近い存在なのだと思っていた。
けれど。
目の前にいるこの方は、それとも違う。
同じ”神”という言葉で括れるはずなのに、そこには決して埋まらない隔たりがあった。
近くにいるはずなのに、どこまでも遠い。
息をすることすらためらってしまうような、圧倒的な存在。
私はようやく気づいた。
――この方は、「記憶」を司る“神”なのだと。




