「記憶」の国 2
やがて報告は終わり、使者たちは何事もなかったかのように塔を後にしていく。
足音一つ響かない。
白い空間には、記憶の海へ沈んでいく虹色の光だけが静かに揺れている。
私は、その場に立ち尽くしていた。
皆が記憶を還すこの場所で、私だけが何も捧げられない。
それでも毎日ここへ立ち、同じ言葉を繰り返す。
「ありません。」その一言だけが、私の役目だった。
……本当に、役目なのだろうか。
私はゆっくりと視線を上げる。
目の前には、どこまでも広がる"記憶の海"。
無数の光が溶け合い、静かに波紋を広げている。
「綺麗…。」
そう思った。
けれど、その感情はすぐに霧のように薄れていく。
何が綺麗だったのだろう。
私は、小さく首を傾けた。
忘れた。
また、忘れてしまった。
……なら。
この海は、どんな感触なのだろう。
そんな疑問が、不意に胸をよぎる。
使者は誰も海に触れない。
触れる必要がないからだ。
記憶は捧げるもの。
触れるものではない。
それでも私は、吸い寄せられるように一歩踏み出した。
白い床に膝をつき、恐る恐る指先を伸ばす。
あと少しで、水面に届く。
その瞬間だった。
静まり返っていた海が、小さく揺れた。
私の指先は、まだ触れていない。
それなのに。
波紋は私へ向かうように広がっていく。
「……え?」
海の底から、一筋の光が浮かび上がった。
虹色ではない。
透明にも見え、銀色にも見える、不思議な光。
それはゆっくりと海面を抜け、私の目の前で静かに止まる。
途端に、知らない景色が頭の中へ流れ込んできた。
白ではない空。
見たこともない大地。
風に揺れる草原。
そして、誰かが笑っている。
……誰?
思わず手を伸ばした、その刹那。
景色は音もなく砕け散り、光も消えた。
「……あれ。」
私は目を瞬かせる。
今、何を見ていたのだろう。
胸の奥に何かが残っている気がする。
けれど、それが何なのか思い出せない。
そのときだった。
「――そこで何をしている。」
静かな声に、私は肩を震わせた。
振り返ると、一人の使者がこちらへ歩いてくる。
他の使者たちと変わらぬ白い装束。
けれど、その瞳だけはどこまでも澄み切っていて、塔に残る虹色の光を静かに映していた。
「……申し訳、ありません。」
咄嗟に頭を下げる。
海へ近づいたことを咎められるのだと思った。
使者は私の前で足を止めると、海へ視線を向けた。
「今、この海に触れたか。」
「いえ……まだ、触れてはいません。」
「そうか。」
短い返事。
その声には怒気も、呆れもない。
ただ事実を確かめるためだけの問いだった。
使者はしばらく海面を見つめる。
波はもう静まり返り、先ほどまでの揺らぎが嘘だったかのように穏やかだった。
「……確かに、反応があった。」
ぽつりと漏らしたその言葉に、私は顔を上げる。
「反応……?」
「お前には分からないか。」
私は首を横に振った。
「何かを見た気がします。でも、思い出せません。」
その言葉を聞いた使者は、ほんのわずかに目を細めた。
まるで、あり得ないものを見るかのように。
「忘れたのか。」
「……はい。」
沈黙が落ちる。
やがて使者は静かに息をつき、私へ向き直った。
「来なさい。」
「……どこへ、ですか。」
「「記憶」様がお呼びだ。」
その一言に、思考が止まる。
記憶様が。
私を。
生まれてから一度も役目を果たせなかった私を。
なぜ?
疑問ばかりが浮かぶ。
けれど、答えを知る者は目の前の使者だけだった。
私は小さく頷き、その後ろを歩き始めた。
静かな白い塔の奥へ。
誰も足を踏み入れたことのない、神の間へ向かって。




