「記憶」の国 1
「記憶」の国では、忘却は許されない。
空を流れる雲の形も。
遠い庭園で散った花弁も。
誰かが抱いた、小さな感情でさえ。
すべては記録され、
すべては保存され、
やがて「記憶」の神へと還る。
それが、この国の理だった。
だから「記憶」の国の使者たちは、
生まれた瞬間から記憶する術を知っている。
見たものを忘れないために。
世界を欠けさせないために。
――けれど、その掟から外れた者が、一人だけいた。
□□□
今日もまた、白い塔には無数の虹色に輝く光が満ちていた。
光のひとつには、細かな文字列が浮かび、ゆっくりと流れている。
それは使者たちが集めた記憶。
空中を静かに漂った光は、塔の中心に広がる巨大な海へと吸い込まれていく。
ーーー“記憶の海”
世界中のあらゆる記憶が、最後に辿り着く場所。
使者たちは海の前に整然と並び、それぞれが今日集めた記憶を捧げていた。
「東層第五区画。霧雨を観測」
「夢片保管域。感情波動に異常なし」
「西庭園。白花二百三十一輪目の開花を記録」
淡々と報告が続く。
そこに感情はない。
ただ事実を正確に記憶し、神へと還す。
それが、「記憶」の使者の役目だった。
「次。」
静かな声に呼ばれ、私は一歩前へ出る。
幾つもの視線が私へと向けられた。
小さく息ををついて、口を開く。
「……ありません。」
その一言で、白い塔は静まり返った。
虹色の光だけが、音もなく海へ沈んでいく。
やがて誰かが、沈黙を裂くように呟いた。
「またか。」
「本日も記憶なし。」
「記録すべきものが、一つも存在しないとは。」
責めるような声ではない。
ただ、理解できない者を見るような声音だった。
私は俯いたまま、その言葉を受け流す。
もう、慣れていた。
使者は、生まれた瞬間から役目を知っている。
花が咲けば、その姿を。
風が吹けば、その流れを。
誰かの感情が揺れれば、その一瞬の揺らぎさえも。
見たもの、感じたもの、そのすべてを記憶として抱え、最後には“記憶の海”へ還す。
それが当たり前。
それが、この国の理。
けれどーー。
私だけは、一度もあの海へ記憶を捧げたことがなかった。
何かを見ても。
何かを感じても。
気が付けば、その記憶は指の隙間から零れ落ちる砂のように消えてしまう。
だから私は、一度も自分の記憶を海へ還せない。
生まれてから今日まで、一度も。
私は使者でありながら、使者の役目を果たせない。
何のために生まれたのかも分からないまま、今日もここに立っている。
「……欠陥。」
誰かが漏らしたその一言だけが、静かな塔の中に、酷く長く響いた。




