「法」の国 1
「――ここが、「法」の国」
そう呟きながら、私は目の前にそびえ立つ大きな門を見上げた。
これまで訪れた国とは、どこか雰囲気が違う。
門も、道も、建物も。
すべてが整然としていて、少しの乱れさえ許されないような空気が漂っている。
私は門を潜り、静かな国の中を歩き始めた。
すると――
「お前が、「記憶」が言っていた使者か?」
突然、声をかけられた。
「……え?」
足を止め、声のした方へ振り返る。
そこにいたのは、一人の男だった。
人の姿をしている。
けれど、どこか人とは違う。
琥珀色の瞳。
その瞳孔は、縦に細く伸びていた。
こちらを見つめるその目には、人ならざるものの気配がある。
それが何なのか、私には分からなかった。
威圧されているわけではない。
それなのに、目の前に立っているだけで、自然と背筋が伸びる。
「……あなたは?」
私が尋ねると、男は静かに答えた。
「我は「法」の神」
「……あなたが、「法」の神?」
「ああ」
男は私を見下ろす。
その言葉には、逆らうことを許さないような重みがあった。
「世界の法を司り、邪心を持つ者――すなわち、罪人を審判する。それが我の役目だ」
そう言って、「法」は私を見つめる。
「神であろうと、我の法の前では無力だ」
その言葉に、私は小さく息を呑んだ。
この方が、本当に「法」の神。
けれど、今はそれを気にしている場合ではない。
私は、ここへ来た目的を思い出す。
「……お願いします」
私は「法」に向かって頭を下げた。
「下界へ行かせてください」
「……下界?」
「はい」
顔を上げる。
「私は、下界へ行きたいんです!」
その言葉を口にした瞬間だった。
「法」の表情が変わる。
「……下界だと?」
私は頷く。
「どうしても、行かなくてはいけないんです」
どうしても。
その言葉だけは、迷わず出てきた。
下界へ行けば、もしかしたら朔に会えるかもしれない。
そう思っていた。
けれど。
「仮にも「記憶」の一部でありながら、下界へ行きたいだと?」
「法」の声が低くなる。
「ふざけるな」
「……え?」
鋭い声が響くとともに、空気が一瞬で張り詰める。
私は思わず身体を強張らせた。
「「記憶」の使者であるお前が、何故下界へ行く必要がある?」
「私は……」
何と答えればいいのか分からない。
朔を探したい。
そう言えばいいはずなのに、その言葉を口にすることすら躊躇われた。
「神が下界へ降りるなど、許されることではない」
「……でも」
私は一歩だけ前へ出た。
「どうしても、会いたい人がいるかもしれないんです!」
「ならない」
即答だった。
「なぜ、ですか?」
必死に尋ねる。
「なぜ、下界に行ってはいけないのですか?」
「法」の神は、呆れたように息を吐いた。
「聞いていたより、ひどいな」
「……何がですか?」
「お前の忘却は」
その言葉に、私は黙り込んだ。
“忘却”
その言葉は、何度も聞いてきた。
この神は、もしかすると私のことを何か知っているのではないか。
「……どういう意味ですか?」
「お前は下界について何も知らない」
淡々とした声が返ってくる。
「それどころか、神についても完全に覚えているわけではない」
言い返すことができなかった。
その通りだった。
私は何も知らない。
神々のことも。
下界のことも。
自分が何者かさえ。
「そもそも、神が下界へ降りることはない」
「……何故ですか?」
再び問いかける。
「降りるということは、神の座を手放すということだ」
「神の……座を?」
「法」の神は、静かに続けた。
「神々は、それぞれが世界を司るために存在している。その役目を持つ神が下界へ降りれば、世界の均衡を乱す」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「故に、神が下界へ降りることを禁じている」
私は、その説明を聞きながら、少しずつ理解していった。
神が下界へ降りることはできない。
降りるならば――神ではなくなる。
そして。
妖精王から聞いた言葉を思い出した。
――妖の国は、滅びた。
胸の奥が、ざわつく。
「……では」
声が震えた。
「では……朔も?」
「法」がこちらを見る。
「朔?」
「はい」
頷く。
「私が出会った、妖の国の王です」
その名前を口にした瞬間、あの日の光景が脳裏に蘇った。
燃えていく街。
最後に握った手。
そして――私を守るように立っていた、あの姿。
「妖の国は……滅びたと聞きました」
声が少しずつ小さくなる。
「もし、国とともに神としての役目まで失われたのだとしたら……」
そこまで言って、私は気づいた。
妖の国が滅びたことで、朔も神としての役目を失ったのではないか。
「……朔は」
唇が震える。
「もう……神では、ないんですか?」
「法」は否定しなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
「……そう、ですか」
胸の奥が、すっと冷たくなっていく。
私は朔を探したかった。
妖の国を出てから、ずっと。
妖精王から下界に妖たちがいるかもしれないと聞いたとき、ほんの少しだけ希望を抱いた。
もしかしたら、朔も下界にいるのではないか。
そう思っていた。
だから私は、ここまで来た。
下界へ行く方法を知りたくて。
朔を探すために。
けれど――その道は、最初からなかった。
朔はもう、神ではない。
私が会いに行こうとしていた「妖の王」は、国が滅び、神としての役目を失った。
その事実が、胸に重くのしかかる。
私は俯いた。
何のために、ここまで来たのだろう。
何のために、歩いてきたのだろう。
「お前の旅の目的は」
「法」の声が静かに響く。
顔を上げられなかった。
「妖の神を探すことだったのか?」
答えられない。
今の私は朔のことしか考えられなかった。
「……違うのだろう」
その言葉に、私はゆっくりと顔を上げた。
「法」の神は、真っ直ぐに私を見ていた。
「お前は、自分自身を知るために旅をしているはずだ」
「……え」
「ならば、旅の目的を見失うな」
その言葉が、胸の奥に残った。
自分自身を知るため。
そうだった。
私は、私自身が何者なのかを知るために旅を始めた。
朔を探すことが、目的だったわけじゃない。
それでも――朔のことを、忘れたくはなかった。
私は俯き、胸に残る痛みを静かに抱えた。
「……はい」
小さく頷く。
「私は……まだ、旅を続けます」
「それでいい」
「法」の神は、それ以上何も言わなかった。
けれど、その言葉だけで十分だった。
私はもう一度、前を向く。
まだ知らないことがある。
まだ行っていない国がある。
そして、まだ自分自身のことを何も知らない。
ならば。
私は歩かなければならない。
自分が何者なのかを知るために。




