人形の国 4
ある日。
私は窓の外を見ていた。
遠くへ続く道。
その先には、まだ行ったことのない国がある。
私は、旅を続けなければならない。
「人形様」
「なあに?」
「私……そろそろ、ここを出ようと思います」
人形様の手が止まった。
返事がない。
やがて、人形様は笑った。
けれど、その表情はどこか硬かった。
「……どうして?」
「え?」
「どうして、出ていくの?」
「私は、旅を続けるためにここへ来たので」
「でも」
人形様は私を見る。
「ここにいればいいじゃない。
ここなら、何も困らないでしょう?」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ、何の問題なの?」
声が、わずかに強くなる。
私は戸惑った。
「私は……」
「私が嫌なの?」
「違います」
「じゃあ、どうして?」
人形様が一歩、こちらへ踏み出した。
「私がいるでしょう?」
その言葉に、胸がざわついた。
何と返せばいいのか分からなかった。
「ここにいて」
「でも――」
「お願い」
人形様の声が震える。
「……私のそばにいて」
私は、人形様の顔を見つめた。
そこには、以前の明るさがなかった。
「人形様……?」
「あなたがいると、私は消えないの」
人形様は、自分の手を見つめる。
「あなたがここにいる間は、私はちゃんとここにいられる」
「だから……行かないで」
「でも、私は――」
「行かないで!」
突然、大きな声が響いた。
私は身体を震わせた。
人形様自身も、驚いたようだった。
「……ごめんなさい」
俯く。
「ごめんなさい……」
消え入りそうな声だった。
「私、おかしいわね」
「人間を作ることしか考えていなかった私が...」
人形様は顔を上げる。
「今は、あなたがいなくなることしか考えられない」
その目に、初めて恐怖が浮かんでいた。
「これでは……神ではいられないわね」
「人形様……」
「分かっているの」
人形様は、かすかに笑った。
「こんなの、間違っている」
それでも。
一歩。
また一歩。
私との距離を縮めてくる。
「でも……怖いの」
その声は、震えていた。
「あなたがいなくなったら、私はまた消えてしまう」
「だったら」
人形様の手が、私の手に触れる。
「あなたが、ずっとここにいてくれればいい」
私は反射的に手を引こうとした。
その瞬間。
カチャ。
小さな音が響いた。
扉の方を見る。
「……え?」
扉が閉まっている。
私は駆け寄り、取っ手を握った。
動かない。
「どうして?」
背後から、声が聞こえた。
「ごめんなさい」
私は振り返る。
人形様が立っていた。
泣きそうな顔で。
「……どうして、鍵を?」
「だって……」
人形様は、自分の胸元を押さえる。
「あなたが出ていったら、私は消えるから」
「でも……!」
「お願い」
人形様が近づいてくる。
「私のそばにいて」
「人形様……」
「ずっと」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「ずっとここにいて」
「私は……旅を続けなければ」
「どうして?」
人形様の声が震える。
「どうして私より、旅の方が大切なの?」
「そういうことでは……」
「じゃあ、私を選んで」
「私を一人にしないで」
人形様の身体が、再び透け始めていた。
腕が。
指が。
輪郭が、ゆっくりと薄れていく。
「見て」
人形様が震える手を差し出す。
「もう、消え始めてる」
私は、その手を見つめた。
「あなたがいなくなったら……もっと消える」
「だから……」
人形様は、私の手を強く握った。
「出ていかないで」
その力は、もう優しいものではなかった。
「ここにいて」
「人形様、痛いです……」
「ごめんなさい」
そう言いながらも、手は離れない。
「でも……離せないの」
人形様の目から、涙が一粒落ちた。
「あなたがいなくなったら、私は何のために存在すればいいの?」
私は答えられなかった。
人形様は泣いている。
苦しんでいる。
それなのに。
その手は、私を逃がさない。
「私は……あなたを作ったわけじゃない」
人形様が呟く。
「だから、最初は分からなかった」
「どうしてこんなに怖いのか」
人形様は、私の手を見つめた。
「でも、今は分かる」
ゆっくりと顔を上げる。
「あなたが、私の存在する理由になってしまったのね」
その言葉を聞いた瞬間。
背筋に、冷たいものが走った。
「……人形様」
「大丈夫よ」
人形様は笑った。
けれど、その笑顔は壊れかけていた。
「あなたは、ここにいればいいの」
扉の向こうへ続く道は、もうない。
「私が、あなたを守るから」
その言葉は優しかった。
けれど――。
その優しさの中には、もう逃げ道がなかった。




