人形の国 3
しばらく、私たちは黙って下界を見つめていた。
人間も、妖も。
互いを恐れ、傷つけ合っている。
それでも、そのどちらにも守りたいものがあった。
私はまだ、人間を好きにはなれない。
胸の奥に残った怒りは、簡単には消えていなかった。
けれど――。
「……もう、人間を嫌い続ける理由もないのかもしれません」
人形様がこちらを見る。
「どういうこと?」
「人間にも、人間なりの理由があったからです」
私は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「妖が傷ついたことは、間違いありません。でも……人間も、妖を恐れていた」
「ええ」
「だから私は……」
一度、息を吸う。
「人間も、受け入れてみようと思います」
人形様は、目を細め、口元に小さな笑みを浮かべた。
「それなら、よかったわ」
その笑顔は、本当に嬉しそうだった。
私は、わずかに肩の力を抜いた。
けれど――。
次の瞬間。
人形様の指先が、ふっと揺らいだ。
「……?」
何かがおかしい。
目を凝らす。
細い指先が、透けている。
まるで、薄いガラスの向こうにあるように。
「人形様……?」
声をかけると、人形様は自分の手を見つめた。
「あら」
まるで他人事のような声だった。
「まただわ」
「また……?」
「最近、少しずつこうなるの」
人形様は指先を眺めながら、笑っている。
けれど、その笑顔は先ほどまでの明るさがなかった。
「どうしてですか?」
「分からない?」
「……はい」
人形様は窓から離れた。
そして、自身の身体を見下ろす。
「人間を作る必要がなくなったでしょう?」
「私が人間を作ることには、意味があったの」
淡々とした声だった。
「人間が生まれるたびに、私はここにいる意味を持てた」
「……では」
私は恐る恐る尋ねる。
「人間を作らなくなったら……?」
人形様は、口元に笑みを浮かべた。
「私も、必要なくなるのよ」
胸の奥が、ひやりとした。
「神なのに……ですか?」
「神だからって、永遠に存在できるわけじゃないもの」
人形様は、そう言って肩をすくめる。
「役目を失えば、いずれ消える」
その言葉を聞いた瞬間、私は何も言えなくなった。
目の前にいる神が。
自分の存在そのものを、少しずつ失っている。
「……怖くないんですか?」
そう尋ねると、人形様は黙った。
やがてーー。
「怖いわ」
初めて聞く、弱い声だった。
「とても」
人形様は、自分の手を握る。
「でも、仕方のないことでしょう?」
そう言って、寂しげに微笑んだ。
「だって、人間たちは……私がいなくても、新しい命を芽吹かせることができたんだもの。」
その声が、ひどく寂しく聞こえた。
私は、気づけば口を開いていた。
「……なら」
人形様が私を見る。
「私がいます」
「……え?」
「私は、ここにいます」
何を言えばいいのか分からなかった。
ただ、消えてしまうという言葉が怖かった。
「だから……消えなくていいんじゃないですか?」
人形様は、言葉を失ったように私を見つめていた。
その目が、ゆっくりと見開かれていく。
「……千夜」
「はい」
「あなたは……ここにいてくれるの?」
「しばらくなら」
私はそう答えた。
私の目的ーー自分を探す旅は、まだ続く。
だから、ずっとここにいるとは言えなかった。
けれど、人形様が消えてしまうのを黙って見ていることもできなかった。
「そう……」
人形様は俯いた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「それなら……まだ大丈夫ね」
それからの日々は、穏やかに過ぎていった。
人形様は私に紅茶を淹れ、この国にある様々な人形を見せてくれた。
一体一体、どんなところにこだわって作ったのか。
どんな顔をしているのか。
どんな服を着せたのか。
人形様は楽しそうに話していた。
そんな時間が、少しずつ増えていった。
そして、不思議なことに。
以前は透けていた指先も、いつの間にか元の姿を取り戻していた。
「……よかった」
私は、その手を見て安堵する。
「ええ」
人形様も微笑んだ。
「あなたがいてくれるからね」
その言葉に、私は何も答えなかった。




