妖の国 9
「朔!」
私は駆け寄った。
朔は膝をつきながらも、私を庇うように立っていた。
「……怪我は?」
「私は大丈夫です。でも、朔が……!」
「これくらい……どうってことない。」
そう言う声は、明らかに苦しそうだった。
「嘘です。」
私は朔の身体を支えた。
そのとき、遠くから妖たちの声が聞こえた。
「王!」
「王様を連れて逃げろ!」
「もうここは駄目だ!」
その言葉に、朔は炎に包まれた街を見た。
長い沈黙。
「……そうか。」
その声は、とても静かだった。
「朔?」
朔は私を見る。
「千夜。」
「はい。」
「この国から出ろ。」
「……え?」
「次の国へ行け。」
「どうして……?」
「ここにいたら、お前まで巻き込まれる。」
「でも……!」
私は首を振った。
「朔も一緒に行きましょう。」
「一緒に行けばいいじゃないですか。」
朔は何も答えない。
私は必死に続けた。
「私、次の国のことなんて何も知りません。」
「一人じゃ嫌です。」
朔は目を伏せた。
「千夜。」
「はい。」
「俺は、この国の王だ。」
「……だから?」
「だから、ここを離れるわけにはいかない。」
「でも……国がなくなったら、王でいる必要なんて――」
「ある。」
朔は静かに言った。
「最後まで、俺は妖の王だ。」
私は何も言えなかった。
燃え上がる街。
崩れていく家。
逃げていく妖たち。
そのすべてを見ながら、朔はそこに立っていた。
「……嫌です。」
「千夜。」
「私は、朔と一緒にいたいです。」
朔は目を見開いた。
けれど、すぐに静かに笑った。
そして――私の手を取った。
温かい。
けれど、その手にはもう力がなかった。
「……なら、一つだけ約束してくれ。」
「……何ですか?」
朔は、私の手のひらを見る。
そこには、千夜という名前が刻まれている。
「俺を忘れないでくれ。」
胸が締め付けられた。
「お前は、忘れるんだろう?」
「……はい。」
「他のことは忘れていい。」
朔は私の手を強く握った。
「ただ……俺と過ごしたことだけは、忘れないでくれ。」
そう言うと、朔の指先に淡い光が灯った。
光は私の手のひらへと流れ、ゆっくりと線を描いていく。
やがて、もう一つの文字が刻まれた。
――朔。
私は、その文字を見つめた。
何度も首を振る。
「……忘れません。」
「そうか。」
朔は笑った。
その笑顔は、昨日の祭りで見たものと同じだった。
「なら、行け。」
「千夜。」
私の名前を呼ぶ声は、これが最後だった。
「お前にその名前をつけてよかった。」
私は何も言えなかった。
ただ、朔の手を握り返した。
ゆっくりと、その手が離れていく。
私は何度も振り返りながら、燃え落ちていく妖の国を後にした。
最後に見えたのは、炎の中に立つ、朔の姿だった。
私は自分の手を握りしめる。
手のひらに刻まれた二つの名前を、何度も確かめるように見ながら。
私は次の国へ向かって歩き出した。




