妖の国 6
翌朝。
私は、部屋の中で目を覚ました。
昨日の祭りとは一転して、朝は静かだった。
けれど、私は昨日の景色を覚えていた。
色とりどりの提灯。
遠くから聞こえた太鼓の音。
妖たちの笑い声。
そして、隣にいた王の横顔。
私は自分の手を見つめた。
「……忘れてない。」
小さく呟く。
それだけのことが、嬉しかった。
やがて、背後から足音が聞こえてきた。
「待たせたな。」
振り返ると、王が立っていた。
「おはようございます。」
「ああ。」
王は私の前まで歩いてくると、考えるようにこちらを見る。
「名前が決まった。」
「……本当ですか?」
「ああ。」
思わず身を乗り出す。
王は、そんな私を見て小さく笑った。
「そんなに楽しみか?」
「……はい。」
自分でも驚くほど、素直に答えていた。
王は私を見つめる。
そして、ゆっくりとその名前を口にした。
「――千夜。」
「……千夜。」
私はその言葉を繰り返した。
初めて聞く名前。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「今日から、それがお前の名前だ。」
「……私の名前。」
私はもう一度、その名前を口にした。
「千夜……。」
何度も。
忘れないように。
口にするたび、その音が少しずつ自分の中へ馴染んでいく。
「気に入らなかったか?」
王が尋ねる。
私は慌てて首を横に振った。
「いえ。」
そして、少しだけ笑う。
「……嬉しいです。」
王は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
私は、もう一度自分の手を見る。
そこには、何もない。
ふと、昨日のことを思い出した。
名前。
祭り。
この国。
王との会話。
全部、覚えている。
けれど――
「……これも、いつか忘れるのかな。」
ぽつりと呟く。
王がこちらを見る。
「何?」
「昨日のことです。」
私は自分の手を握った。
「今は覚えています。でも……私は、忘れるから。」
その言葉に、王は何も答えなかった。
私はしばらく考える。
そして、ふと思いついた。
「……書けばいいのかな。」
「何を?」
「覚えておきたいことを。」
私は続けた。
「名前も。昨日見たものも。忘れたくないと思ったことも。」
言葉にしていくうちに、自分の考えが少しずつ形になっていく。
「書いて残しておけば……もし忘れても、見れば思い出せるかもしれない。」
王はしばらく黙っていた。
やがて、
「……悪くないな。」
そう言った。
私は周囲を見渡した。
紙もない。
筆もない。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
何かに残せればいい。
そう思った。
「王。」
「なんだ?」
「何か、書けるものはありますか?」
王は少しだけ驚いたように私を見る。
「……一つだけ方法がある。」
「教えてください。」
思わず、声に力が入った。
「忘れたくないので。」
その言葉を口にした瞬間、不思議と胸の奥が軽くなった。
昨日までの私は、忘れることをただ恐れていた。
けれど、今は違う。
忘れてしまうのなら——————
忘れる前に、残せばいい。
そう思った。




