第195話「14番目の記録」
東京湾の海底で反応が急激に強まったことで、ハルシオンとイーゼルは予定していた航路を変更し、異常反応の中心地点を直接監視できる位置まで移動していた。海面には目立った変化がなく、周囲を行き交う船舶から見ても、そこが世界規模の異常の次なる舞台になっていることなど想像すらできない。
しかし、海中深くに設置されたセンサーは明確に異常を捉えていた。海底には巨大な空間が存在し、その周囲には一定の間隔で複数の構造体が配置されている。そして、その中心には外部からの探査を拒むような領域があり、そこから発生した反応が日本支部の地下深部へ伸びていた。タジはハルシオンの艦内で複数の観測データを照合しながら、これまでの情報を一つずつ整理していく。「やっぱり、東京湾と日本支部は別々に反応しているわけじゃない。二つの場所が一つのシステムとして動いている。それに……ロスマンで見つかった『14』も、偶然とは考えにくい」。その報告を聞いたソウヤはモニターを見つめたまま、胸の奥に残る妙な感覚を意識していた。十四年前の現象、現在の世界規模の能力異常、そして能力因子とは別に存在する外部因子。どれも同じものではない。それでも、それぞれが何らかの形で同じ場所へ近づいているように見える。そのことが、ソウヤにはどうしても気になっていた。
千太もまた、画面に表示された「14」の文字から目を離せずにいた。ロスマンの旧王宮で見つかった記録、日本支部が保管していた黒ずんだ金属片、そして今になって東京湾の海底へ現れた同じ数字。これまでなら、十四年前に起きた事件に関係する証拠だと考えるだけで済んだかもしれない。しかし、現在の状況はそれほど単純ではない。十四年前の現象と現在の能力異常は同一ではなく、さらに今回問題となっている外部因子は能力因子の体系そのものから外れている。つまり、過去の事件がそのまま現在へ再現されているわけではないのだ。「親父は、このことを知ってたのかもしれない」。千太がそう呟くと、ソウヤが静かに振り向いた。「聖舩さんが十四年前のことを知っているのは確かなんだよな」。千太は一度だけ頷いた。「ああ。でも、全部を知っていたわけじゃないと思う。親父は何かを隠していた。それは昔から分かってた。でも……今回のことまで繋がってるとは思ってなかった」。その言葉の裏には、父親への疑念だけではなく、長い間向き合うことを避けてきた過去そのものへの戸惑いがあった。
その頃、国連安全保障機構日本支部の地下深部では、柊聖舩が未知の区画へ足を踏み入れていた。現在の施設図には記録されていないその場所は、長い年月にわたって閉ざされていたようで、内部には古い設備が残されている。壁面に刻まれた記号は現代の国連安全保障機構が使用するものではなく、能力因子に関する一般的な研究記録とも一致しない。聖舩はその一つへ手を触れ、しばらく無言で見つめた。彼自身もこの区画についてすべてを知っているわけではない。十四年前の出来事を調査する過程で、存在だけを知った場所だった。だが、当時はそこへ入るための条件が揃わず、記録の一部も失われていたため、結局その奥へ進むことはできなかった。ところが現在、黒ずんだ金属片が反応したことで閉ざされていた構造が動き出している。聖舩はその事実を前にして、十四年前に自分たちが見ていたものが事件の「始まり」ではなく、もっと以前から存在していた何かの一部だった可能性を考えていた。「十四年前に起きたことと、今起きていることは同じではない……だが、無関係でもない」。そう呟いた聖舩の前で、壁の奥から低い振動が伝わってきた。
振動は徐々に強くなり、地下区画全体へ広がっていった。聖舩はすぐに身構えたが、そこから何かが飛び出してくるような気配はない。むしろ、施設そのものが一つの巨大な機構として起動しているようだった。床面に刻まれた線が淡く光り、それぞれが地下深部へ向かって伸びていく。その方向を確認すると、線は東京湾の海底へ続いているように見えた。聖舩はその光景を見て、十四年前に回収された黒い金属片を思い出す。あれは単なる残骸ではなかった。何かの一部だった可能性がある。そして、それを回収したことで日本支部は知らないうちに「接続点」を手に入れていたのかもしれない。しかし、そこで一つの疑問が生じる。もしあの金属片が接続のためのものだったのなら、誰が、何に対して接続しようとしていたのか。そして、十四年前にはなぜ完全な応答が返ってこなかったのか。聖舩はその答えを持っていなかった。だからこそ、今になって目の前で動き始めたものを止めることも、簡単にはできなかった。
一方、ロスマン共和国の旧王宮では、ドルク・B・ロスマンとカルラ・エルデリータ・マルティスティンが、日本で起きている反応と自分たちが発見した記録を照合していた。ドルクは古い記録に残された「14」という数字を見ながら、単純な日付や管理番号ではない可能性を考えていた。カルラは記録の周囲に刻まれた記号を確認していたが、こちらも完全には読み取れない。ただ、日本の反応が強くなったタイミングと、旧王宮で記録が反応したタイミングには明確な一致がある。「日本で何かが起動しました」。カルラがそう判断すると、ドルクは静かに頷いた。「そう考えるべきだろうな。ただし、十四年前の出来事がそのまま戻ってきたわけじゃない」。ドルクはそこを慎重に区別していた。彼女たちが見つけた記録は過去のものだ。そして東京湾で起きているのは現在の反応である。二つを繋ぐ何かがあるとしても、それは同一現象という意味ではない。「もし十四年前が最初の接触だったのなら、今は二度目の接触なのかもしれない」。ドルクの言葉に、カルラは答えなかった。二人の目の前にある古い記録は、何かを説明するためではなく、むしろ新たな疑問を増やすために存在しているようだった。
ハルシオンでは、フランが艦体を通して海底から伝わる構造的な変化を読み取っていた。彼のstructūra imperium(構造物制御)は、単純に物体を動かすだけの能力ではない。構造を理解することで、その内部に起きている変化を把握することもできる。フランは海底の構造体が少しずつ形を変えていることを確認し、それが自然現象ではないと判断した。「中心部が開いてる」。その報告を受けたベルトがイーゼル側のデータを確認すると、こちらでも同じ現象を検知していた。海底の構造体が展開するにつれて、これまで遮断されていた中心部から微弱な反応が漏れ始めている。「中に何かがあるのですか?」とベルトが尋ねると、フランはしばらく画面を見つめたあと、「ぁぁ、ある。ただ、物体なのか空間なのか、それとも別のものなのかはまだ分からない」と答えた。タジがそのデータを受け取り、さらに解析を進めると、中心部から発生している反応が「接続要求」でも「応答」でもないことが判明した。それは、二つの反応を繋ぐための経路を構築しているような波形だった。
「つまり、今までの『接続要求』に対して、海底側が勝手に道を作ってるってことか?」
イレイダの問いに、タジは画面を見つめたまま答えた。「たぶん。でも、正確には違うかもしれない。道を作ってるんじゃなくて……もともと存在していた経路を、再び使える状態に戻しているように見える」。その言葉を聞いたソウヤは、無意識に胸元へ手を当てた。再び使える状態に戻す。そう聞いた瞬間、頭の奥に微かな違和感が走る。以前にも感じたものだった。自分の記憶に存在しない何かが、ほんの一瞬だけ意識の表面へ触れるような感覚。だが、今回は声も意味も現れない。ただ、自分の中にいるレイの存在が、ごく僅かに反応したように感じられた。ソウヤは目を閉じ、意識を内側へ向ける。しかし、レイから明確な答えが返ってくることはない。レイが何を知っているのか、海底の構造体と過去に接点があったのか、それすら現時点では分からない。ただ、ソウヤは以前よりもはっきりと感じていた。この世界には、自分が知らない「時間」が確かに存在している。
その頃、日本支部では聖舩がさらに奥へ進んでいた。地下区画の最深部には、一つだけ閉ざされた扉が残されている。扉には「14」という数字が刻まれていた。聖舩はそれを見つめ、十四年前に回収された金属片と同じ数字がここにも存在することを確認する。しかし、彼はすぐにその数字を十四年前の年数だけで判断することを避けた。もし「14」が単なる年月を示すものなら、ロスマンにも同じ記録が存在する理由が説明できない。数字そのものが何かの分類を意味している可能性もある。聖舩は扉へ手を伸ばしたが、その瞬間、背後から強い振動が伝わってきた。地下区画全体が大きく揺れ、扉の表面に刻まれた「14」の数字が淡く発光する。そして、その光が一度だけ東京湾の方向へ伸びた。
ハルシオンのモニターにも、その瞬間の反応が表示された。
東京湾の海底構造体、日本支部の地下区画、そしてロスマン共和国の旧王宮。その三地点が同じ周期で反応している。
しかし、タジはそのデータを見て、これまでとは違う表情を浮かべていた。「……待って。三つじゃない」。全員の視線が彼へ集まる。タジは世界地図へ表示を切り替え、さらに地下深部の反応データを重ね合わせた。「この三地点は、確かに同じネットワーク上にある。でも、これだけじゃない。三つの反応を基準にすると、もう一つだけ空白になっている地点がある」。ソウヤが画面を見ると、そこにはまだ明確な反応として表示されていない場所が存在していた。北極圏。これまでにも外部因子の反応地点として観測されていた場所だが、現在のデータではそこだけが異常なほど静かだった。「北極が……反応してない?」と結衣が尋ねる。タジは首を横に振る。「違う。反応してないんじゃない。こっちから観測できないんだ」。
その言葉とほぼ同時に、北極圏のデータが一瞬だけ復帰した。
表示された波形は、東京湾、日本支部、ロスマンとは異なる。
しかし、その中心には同じ数字が刻まれていた。
『14』
ソウヤたちは言葉を失った。十四年前の現象と現在の世界規模の能力異常は同じではない。外部因子も能力因子とは別の存在だ。その事実は変わらない。それでも、世界各地に残された「14」という記録が、現在になって同時に反応し始めている。
そして、東京湾の海底で閉ざされていた中心部が、ゆっくりと完全に開き始めた。
そこから現れたのは、まだ「何か」と呼ぶことさえできない、暗闇そのもののような空間だった。けれど、その奥から一つの信号だけがハルシオンへ届く。
タジが震える指で解析画面を開く。
そこに表示された文字列を見た瞬間、ソウヤの胸の奥でレイの気配が、これまでにないほど強く揺れた。
《旧管理者記録――第14接続点》
それは、東京湾がただの反応地点ではないことを示していた。
十四年前に始まった何かでもなく、現在の能力異常そのものでもない。
その二つよりもさらに深い場所で、長い間眠り続けていた「接続点」が、今になって再び動き始めていた。
――第195話 完




