第186話「ロスマンの魔女と最強剣士」
ロスマン共和国との国境から離れた深い森林。その夜空を、黒い炎が不気味に照らしていた。
炎の中心に立っているのは、悪魔の化身――Daemonium。ドルク・B・ロスマンが持つ能力、diabolus Invocare(悪魔召喚)によって本来なら彼女自身の意思で召喚される存在だった。しかし今、ドルクは能力を発動していない。それどころか何度解除を命じてもDaemoniumは現界を続け、その代償だけが容赦なく彼女の寿命から支払われていた。
「……まったく、冗談ではないな」
胸元を押さえたドルクが苦しげに息を吐く。その前にはカルラ・エルデリータ・マルティスティンが立ち、抜き放った剣をDaemoniumへ向けていた。
「ドルク様、呼吸が乱れています」
「この程度で死にはしない」
「その言葉を信用した結果、何度あなたを担いで逃げたと思っているのですか」
「三回くらいだったか?」
「七回です」
「……意外と多いな」
「ですから、今回は私の指示に従ってください」
カルラの口調はいつもと変わらない。しかし剣を握る手には、僅かな力が込められていた。
彼女は能力者ではない。
ただの人間だ。
それでもロスマンの最強剣士と呼ばれるだけの実力を持ち、これまで何度もドルクと共に能力者同士の戦場を潜り抜けてきた。相手がドルク自身の能力によって召喚された悪魔であろうと、彼女に退くという選択肢はない。
Daemoniumがゆっくりと腕を上げる。
周囲に浮かんでいた黒炎が一点へ集まった。
「来ます」
「ああ」
カルラが踏み込んだ。
直後、黒炎が放たれる。
カルラは正面から受けるのではなく、最小限の動きで軌道を外れると、そのまま木々の間を駆け抜けた。炎が背後の地面を抉り、熱風が外套を揺らす。それでも速度を落とさずDaemoniumとの距離を詰め、一気に剣を振り抜いた。
金属音に似た甲高い音が森へ響く。
「硬いですね」
剣は確かにDaemoniumを捉えていた。しかし斬撃が通った感触はない。
「だから言ったであろう。私の能力だぞ」
「斬れないとはお聞きしておりません」
「そこまで説明が必要だったか?」
「次からお願いします」
「次がある前提なのか……」
ドルクが呆れたように言った瞬間、Daemoniumがカルラへ腕を振り下ろした。
速い。
カルラは剣で受け流したものの、衝撃までは殺し切れず、身体ごと後方へ弾き飛ばされる。空中で姿勢を整えて着地した彼女は、そのまま数メートル滑って止まった。
「カルラ!」
「問題ありません」
「それを言う奴は大抵問題がある」
「あなたにだけは言われたくありません」
立ち上がるカルラを確認し、ドルクは安堵する。しかし同時に、彼女自身の身体から力が抜けていく感覚はさらに強くなっていた。
寿命を代償として召喚するDaemonium。その能力を短時間使用するだけなら、ドルク自身が代償を計算しながら制御できる。だが今は解除できない。仮にこの状態が何時間も続けば、どれだけ寿命を失うのか想像すらしたくなかった。
「……力ずくで戻すしかないのか」
ドルクは右手を上げる。
「ドルク様?」
「私の能力ならば、私が制御するだけだ」
「しかし能力を使用すれば、さらに寿命が――」
「分かっている。だが何もしなくても削られている。それならば多少の追加料金を支払ってでも、さっさと店を閉めた方が安上がりだ」
「自分の寿命を料金扱いしないでください」
「分かりやすいだろう?」
「まったく分かりたくありません」
カルラが言い返す間にも、ドルクの周囲へ黒い粒子が集まり始める。
自らの意思によるdiabolus Invocare。
すでに能力が勝手に発動している状態で、さらに本人の意思による制御を重ねる。これまで試したことのない危険な行為だったが、ドルクに躊躇はなかった。
「Daemonium」
声とともに、黒い炎がドルクの周囲を渦巻く。
「誰の許可を得て現界している」
悪魔が振り返る。
「戻れ」
両者の間で能力そのものがぶつかった。
黒炎が大きく膨れ上がり、周囲の木々を揺らす。Daemoniumの身体が一瞬だけ崩れかけたものの、すぐに再形成された。
「……拒否をするのか」
ドルクの額を汗が伝う。
「ならば、もう一度だ」
「ドルク様、無理をなさらないでください!」
「カルラ。今だけは黙っていろ」
普段の軽さが消えた。
カルラはそれ以上止めなかった。
ドルク・バルティスティン・ロゼリア。かつてロスマン共和国の皇女として生まれながら、強大すぎる能力を恐れられ、祖国から追放された女性。彼女が「ロスマンの魔女」と恐れられるようになった理由は、単純に悪魔を召喚できるからではない。
その悪魔を従わせられるからだ。
「私から寿命を奪うなら、それ相応に働け。勝手に出てきて好き放題するなど――」
ドルクの瞳が鋭くなる。
「契約違反にも程がある」
Daemoniumの身体が大きく揺れた。
今度は違う。
ドルクの命令が届いている。
黒い巨体が徐々に粒子へ変わり始め、周囲の炎も弱まっていく。カルラは剣を構えたまま警戒を続けていたが、やがてDaemoniumの姿は完全に闇へ溶けた。
森に静けさが戻る。
「……ふぅ」
ドルクが息を吐いた。
その直後。
膝から力が抜けた。
「ドルク様!」
倒れる寸前でカルラが抱き止める。
「だから申し上げたでしょう!」
「うるさいな……少し疲れただけだ」
「立てますか?」
「当然――」
立とうとして、再び身体が崩れる。
「……少し待て」
「立てないではありませんか」
「地面の状態が悪い」
「平坦です」
「今日は重力が強い」
「いつも通りです」
「お前、もう少し主君を労われないのか」
「労わっているから怒っています」
カルラは溜息を吐きながらドルクを支えた。
Daemoniumは消えた。
しかし問題は解決していない。
本人の意思とは無関係に能力が発動したという事実。そして強制召喚中も、反動だけは通常通り発生していた。
「寿命は?」
カルラが静かに尋ねる。
「分からない」
「どの程度削られたのですか」
「だから分からない。数字で表示されるわけではないからな」
「……そうですか」
「そんな顔をするな」
ドルクはカルラの肩を借りながら立ち上がる。
「まだ死なない」
「必ずですか?」
「努力する」
「それは約束ではありません」
「面倒な側近だな」
「今さらです」
ドルクは僅かに笑った。
◇
同じ頃、太平洋を航行する戦艦ハルシオンでは、世界各地から届く能力異常の情報が急速に増えていた。
艦内の作戦室には能研、ハルシオン、イーゼルの主要メンバーが集まり、壁面いっぱいに世界地図が表示されている。そこには能力異常が確認された地域が次々と追加されていた。
タジは複数の端末を同時に操作しながら、各国の観測データを整理していた。
「駄目だ。増え方が速すぎる」
「どれくらい?」
ソウヤが尋ねる。
「少し前の時点では局地的だった。でも今は数十地域。しかも症状が全部違う」
タジはデータを分類する。
「能力の強制発動、出力上昇、出力低下、一時的な能力消失、反動増大、それから本来できなかった使い方が突然できるようになった例もある」
「進化してるってこと?」
結衣からの通信越しの問いに、タジは首を振った。
「そう簡単に言わない方がいい。身体が適応できてないケースも多い。能力だけ強くなって本人が耐えられなきゃ、進化どころか自滅だ」
マランの能力自律化も、その極端な例だった。
強大な能力ほど危険という単純な話ではない。反動の軽い能力であっても、本人の意思を無視して発動し続ければ日常生活そのものが成立しなくなる。
「海底の存在は止められると言っていたのだろう?」
イレイダが尋ねる。
「以前の能力自律化についてはな」
惣一が答えた。
「だが黒い球体は『局所覚醒段階終了、広域共鳴段階へ移行』と表示した。今起きているものが以前と同じ現象とは限らない」
「面倒な言葉ばっか増えるな」
ソウヤが頭を抱える。
その向かいではデウスが世界地図を見つめていた。
「広域共鳴……想定より早い」
その一言をフランは聞き逃さなかった。
「お前、何か知ってるだろ」
「可能性を知っていただけだ」
「それを普通は『知ってる』って言うんだがな」
「デウス」
アメスも呆れたように横を見る。
「今度はちゃんと説明した方がいいですよ」
「分かっている」
「お前、アメスの言うことは聞くんだな」
「長い付き合いだからな」
「私にもベルトがいるが、あいつの言うことは結構無視するぞ」
「艦長、聞こえてますからね!」
通信越しにベルトの声が飛んできた。
僅かに空気が緩んだものの、デウスの表情は変わらない。
「広域共鳴は、能力因子原型に近い反応が一定以上まで活性化した際、周囲の能力因子へ連鎖的に影響を及ぼす現象だと考えられている。ただし私も実際に経験するのは初めてだ」
タジが手を止める。
「待って。三系統がハルシオンで揃った直後に始まったよな?」
「ああ」
「まさか俺たちが揃えたせいじゃないよな?」
室内が静かになった。
ソウヤがゆっくりデウスを見る。
「……どうなんだ?」
「可能性は低い」
「低いだけなのか?」
「三系統の照合は、進行していた現象を検出しただけだと私は考えている。三人が揃わなければ広域共鳴が発生しなかった、という意味ではない」
フランが眉を寄せる。
「つまり俺たちがスイッチを押したわけではないのだな?」
「恐らくな」
「そこは断言してほしかったがな」
「根拠がない」
「こいつ本当にブレないな……」
惣一は話を戻した。
「重要なのは原因の責任ではない。止める方法だ」
「ああ」
デウスも頷く。
「そして、その鍵は静穏海域にある可能性が高い」
ハルシオンは現在も静穏海域へ向かっている。ただし以前のように勝手に加速することはなく、フランの制御と古代構造物による誘導が奇妙な均衡状態を保っていた。
「なら予定通り進むだけだ」
フランが決める。
「ハルシオンとイーゼルで静穏海域へ向かう。能研も同行。それでいいな」
「異論はない」
惣一が答える。
「ただし世界各地の情報収集は継続する。今回の異常が個体ごとに違うなら、事例そのものが解析材料になる」
「それなら」
タジが一つの地域を拡大する。
「さっきのロスマン共和国周辺。ここ、かなり参考になるかもしれない」
「ドルク・B・ロスマン?だっけ」
ソウヤが名前を思い出す。
「ああ。能力の強制発動が観測された直後、反応が急激に低下した」
「まさか、死んだのか?」
「縁起でもないこと言うな。生命反応までは取れない」
「じゃあ能力を止めた?」
「その可能性が高い」
タジは画面へドルクの能力情報を表示した。
「diabolus Invocare。召喚型能力。反動は寿命。もし本人が強制発動された能力を自力で停止できたなら、能力自律化に対抗する方法のヒントになるかもしれない」
デウスがドルクの名前を見つめる。
「接触できるのならば話を聞く価値はある」
「でもロスマン共和国にいるとは限らないんだろ?」
「追放されてるからな」
タジが答える。
「現在地は正確には分からない。ただ『ロスマン協定』って名前の独立勢力と行動してる記録がある」
「協定?」
「国家組織じゃない。ドルクを中心にした独立勢力みたいだけど、情報が少ない。国際機関との接触記録もほとんどない」
そこで惣一が聖舩へ通信を繋いだ。
◇
『ロスマン協定?』
国連安全保障機構日本支部で通信を受けた柊聖舩は、聞き覚えのある名称に眉を寄せた。
「ああ。接触手段はあるか」
『なくはない。ただし国連から直接接触すれば警戒される』
「理由は?」
『ドルク・B・ロスマンは能力者として祖国から追放された人間だ。国家機関に対する警戒心が強い。まして現在のロスマン共和国政府との関係は良好とは言えん』
「国連すら信用していないのか?」
『少なくとも無条件にはな』
聖舩はデータベースを開いた。
『だがカルラ・エルデリータ・マルティスティンなら話は別だ』
「側近の女か?」
『ああ。非能力者だが、ロスマン最強剣士の異名を持つ。実質的にドルクの護衛、補佐、外交窓口まで兼任している人物だ。彼女を経由すれば接触できる可能性はある』
イレイダが通信へ近づく。
「非能力者で最強剣士?」
『興味を持つな』
「何故だ」
『君がそういう顔をすると、大抵一戦したいように見受けられるからな』
「失礼な奴だ。ちょっと手合わせしてみたいと思っただけだ」
『それを戦いたがっていると言う』
ソウヤが思わず笑った。
「聖舩さん、カルラへ連絡できます?」
『試してはみる。ただし期待はするな』
「お願いします」
通信を切る。
惣一は世界地図へ視線を戻した。世界規模の能力異常が始まった以上、能研だけで全てを解決することなど不可能だ。これまで接点のなかった能力者や組織とも協力しなければならない局面が、いずれ必ず来る。
ロスマン協定は、その最初の一つになるかもしれなかった。
◇
森の異変から数時間後。
ドルクとカルラはロスマン協定が確保している小さな拠点へ戻っていた。
ドルクはソファに横になり、毛布を掛けられている。本人は何度も「そこまで重症ではない」と主張したが、カルラによって強制的に休養を命じられた。
「暇だ」
「寝てください」
「眠くない」
「目を閉じてください」
「命令するな。私は皇――」
そこでドルクが言葉を止める。
カルラも何も言わなかった。
皇女。
かつてなら自然に続いていた言葉。
しかし今のドルクには、その肩書きを名乗る国がない。
「……いや。何でもない」
「温かい飲み物を用意します」
「カルラ」
「はい」
「さっきは助かった」
カルラの足が止まる。
「珍しいですね」
「何がだ」
「素直にお礼を仰るとは」
「取り消すぞ」
「もう聞きましたので無効です」
「本当に可愛げがないな」
「ドルク様に仕えていますので」
「私のせいか?」
「半分ほどは」
ドルクが呆れたように笑った。
その時、机の上に置かれた通信端末が鳴る。
「誰だ?」
カルラが確認する。
「……国連安全保障機構」
ドルクの笑みが消えた。
「無視しろ」
「日本支部からです」
「もっと無視しろ」
「なぜです?」
「面倒そうだからだ」
「子供ですか」
カルラは発信情報を確認する。
「発信責任者、柊聖舩」
ドルクは少しだけ反応した。
「知っているのですか?」
「名前だけなんとなくな。能力者ではないのに、能力者の問題へ首を突っ込む変人だ」
「ドルク様と気が合いそうですね」
「どこを見てそう思った」
「面倒事へ自ら近づくところです」
「お前、最近遠慮がなくなったな」
「昔からです」
カルラは通信内容を開いた。
そこには余計な外交文句はほとんどなかった。
世界規模で能力異常を確認。
太平洋上にて原因調査中。
ドルク・B・ロスマンに発生した能力異常について情報交換を希望。
そして最後に。
同様の異常による能力者の死亡を防ぐため、協力を求める。
ドルクはしばらく黙って文章を読んでいた。
「どうされますか?」
カルラが尋ねる。
「……どうやら、私だけではなさそうだな」
「そのようですね」
ドルクは自分の手を見る。
意図せず召喚されたDaemonium。
解除できない能力。
勝手に削られていった寿命。
同じような現象が世界中で起きているのなら、放置するわけにはいかない。国家から追放された自分だからこそ、国家の庇護を受けられない能力者がどれほど存在するかも知っている。
「返事をしろ」
「内容は?」
「情報交換には応じる。ただし国連の指揮下には入らない。ロスマン協定は独立した立場を維持する」
「承知しました」
「それと――」
ドルクは身体を起こした。
「太平洋で何を見つけたのか、全て話せと伝えろ」
「全て、ですか」
「ああ。こちらは寿命を削られたんだ。それくらい聞く権利はあるだろう」
「交渉材料としては少々感情的ですね」
「うるさい」
カルラは僅かに笑い、返信を作成し始めた。
こうして、これまで能研ともハルシオンともほとんど接点を持たなかったロスマン協定が、世界規模の能力異常をきっかけに動き始めた。
その頃、太平洋を進むハルシオンでは静穏海域までの距離が刻一刻と縮まり、世界各地からは新たな異常報告が届き続けていた。能力の強制発動に苦しむ者、突然能力を失った者、反動だけが増大した者、そして今までとは異なる力を発現し始めた者。今回の異常は、単なる「暴走」という一つの言葉では説明できない段階へ入っている。
その中で、ドルクが自らの能力を強引に制御し直したという事実は小さくない。本人の意思が、能力因子の広域共鳴へ対抗できる可能性を示しているからだ。
そして何より、世界には能研だけがいるわけではない。
能力者を研究する者。
能力者を管理しようとする者。
能力者を恐れる者。
能力者を守ろうとする者。
国家から追われながら、それでも自分たちの居場所を築いてきた者たちもいる。
太平洋海底から始まった異変は、彼らを否応なく同じ舞台へ引き寄せようとしていた。
その中心へ向かうハルシオンの前方で、静穏海域の海面が再び不自然なほど穏やかになり始める。
そして海底深く。
前回、惣一と聖舩を解析領域へ迎え入れた存在が、世界各地で発生する無数の能力反応を静かに捉えていた。
『――広域共鳴率、上昇』
『――現代能力因子群、個体差拡大』
『――原型三系統、集結を確認』
わずかな沈黙の後、新しい判定が下される。
『――次段階移行条件。未達』
まだ何かが足りない。
三つの継承系統が揃ってもなお、条件は完成していない。
そして、その「何か」が何を意味するのかを、惣一もフランもデウスもまだ知らなかった。
世界規模の能力異常が広がる一方で、海底では別の条件が静かに満たされる時を待っていた。
――第186話 完




