第179話「海底からの目覚め」
海底から浮かび上がってくる光は、単なる発光現象には見えなかった。
それは海水を照らしているというより、海そのものの内側から何かが透けて見えているようだった。深度を示す計器は数値を安定させず、数千メートルを示した直後に測定不能へ切り替わり、さらに次の瞬間には数百メートルと表示される。距離も深さも、この海域ではもはや意味を失いつつある。
そして、つい数秒前までソウヤたちの身体の奥で蠢いていた能力は、完全に沈黙していた。
「……レイ?」
ソウヤは頭の中へ呼びかける。返事がない。
人格変化が失われたわけではない。自分の中に何かが残っている感覚は確かにある。だが、それへ手を伸ばそうとしても届かない。まるで能力という存在だけを、遥か遠くへ隔離されたような感覚だった。
イレイダも右拳を握り、自分の身体を確かめている。
「Physical attackerが使えない。身体自体は普通に動くが、能力へ繋がらない」
「私もです」
刹那が静かに答えた。
「能力の感覚そのものが消えています。幻剣を形成しようとしても、何も起こりません」
「呪詛も同様ですね」
夢幻の声音にはいつもの余裕が残っていたが、目だけは海面から離していない。
惣一は何も言わず、右手を前へ出した。
神足通を発動しようとする。
しかし空間は揺らがなかった。
「……なるほど」
ソウヤが思わず振り返る。
「名取さんも駄目ですか?」
「ああ。発動できない」
「そんなこと……あるのか」
「今、実際に起きている」
惣一の返答はいつも通り冷静だったが、その一言だけで異常さは十分に伝わった。
名取惣一のiddhi-vidha-ñāṇa(神足通)すら完全に沈黙させる何かが、海の底にいる。
その一方で、聖舩だけは何も変わっていなかった。彼はもともと能力者ではない。能力を封じられるという概念そのものが存在しないため、今の状況では皮肉にも最も自由に動ける人間だった。
「全員、能力が使えないことを前提に行動しろ」
聖舩は甲板から艦橋へ戻りながら指示を出した。
「国連部隊は通常戦闘装備へ切り替え。能力者班を後方へ下げろ。対象との距離を維持しながら離脱する」
「俺たちを下げる?」
千太が顔をしかめる。
「今のお前たちは能力を使えない。通常時と同じつもりで動けば死ぬ」
「だからって――」
「千太」
聖舩は息子を見る。
「能力がなくても戦えると思うなら残れ。能力がある前提でしか戦えないなら下がれ。それだけだ」
千太は一瞬言葉に詰まり、その後小さく舌打ちした。
「……本当に言い方が腹立つ」
「事実を言っている」
「分かった。残る」
「好きにしろ」
「だからそれも!」
「今は親子喧嘩してる場合じゃないって!」
ソウヤが割って入る。
もっとも、自分自身も能力を失っている以上、説得力があるかは怪しかった。
聖舩は既に会話を切り上げ、艦橋へ最新状況を確認している。海流による吸引は依然として続いており、機関を最大出力まで上げても船はほとんど前へ進んでいない。それどころか、海面中央の巨大な窪みへ少しずつ引き寄せられていた。
「対象との距離は?」
「測定不能です。レーダー上では六百メートルですが、光学観測では一・八キロ。衛星測位では逆に距離が縮んでいます!」
「距離情報を捨てろ。船体への実負荷だけ見ろ」
「了解!」
聖舩の指示に、隊員たちが即座に動く。
この異常海域で通常の計器が信用できないなら、船体が実際に受けている力だけを基準にする。シンプルだが確実な判断だった。
「ねえ」
ネリクマは今回同行していない。だからこの場にいる能研側ではソウヤが一番口数が多くなっている。
「さっきの観測端末、まだいるよな?」
黒い構造体へ視線を向ける。
人型端末はそこに立ったままだった。
ただし様子がおかしい。
先ほどまで聖舩や惣一を解析し続けていたはずなのに、今は完全にこちらへの興味を失っている。
ずっと海底だけを見ている。
「……あいつ、怖がっていないか?」
イレイダが言った。
「怖がるって感情あるのかな」
「少なくとも、さっきまでとは様子が違う」
確かにそうだった。
観測端末の姿勢には、明らかな変化がある。
身体の重心が僅かに後ろへ移り、黒い構造体そのものもゆっくりと海面から離れようとしている。しかし周囲の海水が中央へ吸い込まれているせいで、思うように距離を取れていない。
やがて端末が再び口を開いた。
『――観測対象群へ再警告』
聖舩がすぐに反応する。
「聞いている」
『――即時退避を推奨』
「退避したくても距離が機能していない」
『――把握』
「なら助けろ」
あまりにも当然のように言った聖舩に、ソウヤが思わず二度見した。
「頼むんだ」
「使えるものは使う」
「相変わらずだな……」
端末は数秒沈黙した。
『――当機に海域制御権限なし』
「では何が制御している」
『――不明』
「お前たちを作った存在ではないのか」
『――否定』
聖舩の目が鋭くなる。
「もう一度聞く。お前たちは誰が作った」
『――記録領域、封鎖』
「その封鎖は、海底の存在によるものか」
観測端末が初めて返答を止めた。
タジの声が通信から飛んでくる。
『聖舩さん、その質問もう一回!』
「聞こえている」
『反応が変わった!今まで一定だった端末側の能力波形が乱れた!』
「つまり?」
『分からない。でも、その質問だけ明確に影響してる!』
聖舩は人型端末を見た。
「封鎖したのは、お前たち自身ではないな?」
沈黙。
「そして海底にいる何かについて、お前たちは本当はもう少し知っている」
『――回答権限なし』
「知らないとは言わなかったな」
端末は再び沈黙した。
その一瞬の間に、海底の光がさらに強くなった。
◇
調査船全体が、大きく沈み込むように揺れた。
「船体傾斜、七度!」
「左舷バラスト調整!」
「操作不能です!排水装置が反応しません!」
「手動系統へ切り替えろ!」
怒号が飛び交う。
能力者であるソウヤたちは何もできない。飛行も空間移動も、身体強化も使えない。この状況で初めて、普段どれほど能力に頼っていたのかを思い知らされる。
イレイダは壁へ手をつきながら苦笑した。
「能力が使えないだけで、こんなに身体が軽く感じるとは思わなかった」
「軽い?」
「いつも能力の出力を意識してるからな。今は完全に生身だ」
「怖くないのか?」
「逆だ」
イレイダは拳を握る。
「ちょっと懐かしい」
「何が?」
「能力に頼る前の戦い方さ」
そう言いながらも、彼女は笑っていた。
惣一も同様だった。
神足通が使えないという事実を嘆くのではなく、海流や船体の動きを冷静に観察している。
「惣一様」
刹那が声を掛ける。
「どうされますか?」
「能力が使えないのならば、使わなければいい」
「簡単に仰いますね」
「元々私は、神足通を持って生まれたわけではない」
惣一は甲板へ視線を向けた。
「能力がなくても人間は動ける。聖舩を見れば分かるだろう」
少し離れた場所でその言葉を聞いた聖舩が振り返った。
「褒めても何も出ないぞ」
「褒めたつもりはない」
「そうか」
「なんでこの二人こんな感じなんだよ」
ソウヤが呆れる。
だが。
その直後に海底から、再び低い振動が伝わった。
今度は明らかに先ほどより近い。
「……来る」
イレイダの声が低くなる。
「見えるのか?」
「いや。分かる」
能力ではない。
ただの本能だった。
巨大な何かが近づいている。
海面の窪みがさらに深くなり、その中央に青白い光が集まっていく。光はやがて一つの輪郭を作り始めたが、巨大すぎて全体像が分からない。調査船から見えるのは、その一部だけだった。
「タジ、サイズ出せる?」
『無理!距離も深度も壊れてるから比較対象がない!でも少なくとも、さっきの黒い構造体より桁違いにデカい!』
「桁違いって……」
『俺に聞くな!』
観測端末も同じものを見ていた。
『――予測外覚醒率、二十三パーセント』
聖舩がすぐに聞き返す。
「二十三?」
『――対象覚醒度』
「完全覚醒した場合はどうなる」
『――予測不能』
「世界への影響は」
『――予測不能』
「能力者への影響は」
『――予測不能』
聖舩が眉間を押さえた。
「役に立たんな」
「親父さん、それ本人に言うのかよ」
千太が呆れる。
しかし端末は特に気分を害した様子もない。
『――当機の観測範囲を超過』
「なら一つだけ答えろ」
聖舩は海底を見る。
「十四年前にも、これが目覚めたのか」
端末が停止した。
長い沈黙。
その間にも調査船は海流に引き寄せられ続けている。
『――十四年前』
端末の声が、初めて少しだけ低くなった。
『――覚醒率、一・八パーセント』
「……一・八?」
ソウヤが聞き返す。
今は二十三。
十四年前とは比較にならない。
『――太陽由来高エネルギー現象を検知。対象、一時反応』
タジがすぐ食いついた。
『やっぱり!十四年前の太陽活動は引き金だったんだ!』
聖舩は冷静に問いを続ける。
「古代の太陽フレアも同じか」
その質問に、観測端末の反応がこれまでと明らかに違った。
表面を走る光が一瞬だけ途切れる。
『――該当記録』
『――アクセス不能』
「存在はするんだな」
『――肯定』
「内容は」
『――封鎖』
「またそれか」
聖舩は目を細めた。
古代の太陽フレア。
能力者の始まり。
十四年前に起きた太陽活動と海底存在の微弱な反応。
そして現在の大規模覚醒。
全てに何らかの繋がりがある。
だが、まだ同じものではない。
古代の太陽フレアは能力因子誕生の起源。
十四年前は海底存在が初めて現代で反応したきっかけ。
そして今は、その存在が本格的に目覚め始めている。
「つまり……」
ソウヤがゆっくり整理する。
「今の能力自律化って、古代の太陽フレアがもう一回起きたわけじゃないんだよな」
『そう!』
通信越しにタジが答える。
『古代のフレアは始まり。十四年前の太陽活動は海底の何かを一瞬刺激しただけ。そして今は、その海底の何か自体が能力因子に干渉してる! 同じ線にはいるけど、同じ事件じゃない!』
「なるほど……」
千太が海底の光を見る。
「じゃあ今止めるべきなのは、太陽じゃなくてあれか」
「まだ止めると決めるな」
聖舩が言った。
「何でだよ」
「正体すら分からないものを、危険だからという理由だけで破壊するのは早い」
千太が少し意外そうに父を見る。
「……あんたがそれ言うのか?」
「何だ」
「いや」
千太は口元を少しだけ緩めた。
「ちょっと驚いただけ」
聖舩は気にせず、再び観測端末へ向き直った。
「お前たちが能力因子を刺激していた理由は何だ」
『――観測』
「何のための観測だ」
『――進化段階記録』
「誰のために」
『――回答不能』
「海底の存在のためか」
『――否定』
今度は即答だった。
ソウヤの表情が変わる。
「じゃあ、海底の奴と観測端末を作った奴は別ってこと?」
『――肯定』
その瞬間、今まで見えていた関係が一気に崩れた。
観測端末を作った存在。
海底に眠る正体不明の存在。
古代の太陽フレア。
三つは関連している可能性が高い。
だが、同一ではない。
「どんどん話が大きくなってないか?」
ソウヤが引きつった笑いを浮かべる。
「今さらだろう」
夢幻が落ち着いた声で答えた。
「確かに」
◇
突然、海流が止まった。
「……?」
調査船の揺れが収まる。
機関出力は最大のままだというのに、さっきまで船を引き込んでいた力が完全に消えている。
「停止?」
隊員が計器を確認する。
「海流、正常化しています!」
「距離異常は?」
「依然として観測されます。ただし縮小傾向!」
全員が海面を見る。
海底の光は消えていない。
それどころか先ほどより近い。
なのに。
何かが変わった。
『――覚醒率、二十四パーセント』
観測端末が告げる。
「一パーセント増えたのに静かになった?」
ソウヤが首を傾げる。
惣一が答えた。
「暴れているのではないのかもしれない」
「え?」
「先ほどまでの異常は、眠った状態での反射だった可能性がある」
聖舩も同じ考えに至っていた。
「目覚め始めたことで、逆に制御された……?」
その時だった。
ソウヤの胸の奥に、かすかな感覚が戻った。
「……レイ?」
『聞こえる』
「戻った!」
イレイダも右腕を握る。
「能力が繋がった」
刹那、夢幻、千太。
そして惣一も。
全員の能力が一斉に戻ってくる。
しかし先ほどまでのような暴走感はない。
「どういうことだ?」
ソウヤの疑問に答えるように、観測端末が海底へ向かって顔を上げた。
『――対象、能力因子への直接干渉を停止』
「なぜ?」
『――不明』
「また不明か」
聖舩は少し苛立ったようだった。
そして。
海底の光が、ゆっくりと形を変える。
巨大な輪郭の中から、一つだけ細い光が分離して海面へ伸びてきた。
攻撃には見えない。
まるで。
こちらへ手を伸ばしているようだった。
「全員動くな」
聖舩が即座に命じる。
光は海面を越え、調査船の手前で止まった。
そこから声が聞こえた。
観測端末とは違う。
人間の声でもない。
それでも、なぜか意味だけは直接理解できた。
『――能力因子保有個体』
全員が固まる。
『――接触を確認』
ソウヤは海面へ目を向けた。
その声には敵意も、怒りもなかった。
ただ、長い眠りから目覚めた存在が初めて外の世界を認識したような、不思議な響きがあった。
『――現在年代を要求』
「年代?」
ソウヤが戸惑う。
聖舩が答える。
「西暦二〇――」
途中で一度言葉を止め、正確な年を告げる。
光は数秒間沈黙した。
そして。
『――経過時間、想定超過』
惣一の表情が僅かに変わる。
「何からの経過時間だ」
また沈黙。
『――記録照合中』
「答えられないのか」
『――記録損傷』
「お前は何者だ」
聖舩の質問に。
今度は。
すぐに返事が来た。
『――識別情報、欠損』
『――自己呼称、保持せず』
名前がない。
あるいは忘れている。
その存在は、自分が何者なのかさえ完全には覚えていない。
しかし次の言葉だけは、はっきりしていた。
『――能力因子起源記録を保持』
空気が変わった。
ソウヤが息を呑む。
「……今なんて?」
タジの声も通信越しに止まっていた。
聖舩が聞き返す。
「能力因子の起源を知っているのか」
『――部分的に保持』
「古代の太陽フレアについても?」
海底の光が静かに強くなる。
『――肯定』
誰も言葉を発しなかった。
今まで。
オールドマン。
GENESIS。
名取家。
太陽フレア。
断片的な研究から辿ってきた能力者の起源。
その時代を直接知っている可能性のある存在が。
今、彼らの目の前にいる。
しかし。
聖舩はすぐに質問を重ねなかった。
その代わり。
「一つだけ確認する」
『――許可』
「今、世界中で起きている能力異常。」
聖舩は海底の光を見据えた。
「お前が意図して起こしているのか」
沈黙は長かった。
やがて返ってきた答えは。
誰も予想していなかった。
『――否定』
「ではなぜ起きた」
『――覚醒に伴う副次共鳴』
「止められるか」
再び沈黙。
『――可能』
ソウヤたちの表情が一気に変わる。
「本当か!?」
『――ただし』
その一言だけで。
喜びが止まった。
『――現代能力者群の能力因子状態、異常』
「異常?」
『――本来想定された進化経路と大幅に乖離』
惣一が尋ねる。
「何が原因だ」
『――解析には』
海底から伸びた光が、ゆっくりと調査船へ近づく。
『――能力者個体の提供を要求』
聖舩の表情が変わる。
「何をするつもりだ」
『――内部解析』
「危険性は」
『――不明』
今度は、能力者側が黙る番だった。
能力自律化を止める手段を持つかもしれない。
古代の太陽フレアについて知っている。
能力因子の起源についても。
だが、その代わりに能力者を一人海底へ渡せという。
そして。
その場にいる能力者たちの中で。
最初に一歩を踏み出したのは。
名取惣一だった。
「私が行こう」
「名取さん!?」
ソウヤが振り返る。
聖舩も眉を寄せる。
「理由を聞こう」
「最も適しているからだ。」
惣一は、海底の光を見ながら静かに言った。
「先ほどあの観測端末は。」
「私を。」
「高接続個体と呼んだ。」
「ならば。」
「解析をするなら。」
「私が最も多くの情報を。」
「与えられる。」
千太が前へ出る。
「待って!」
「名取さん。」
「危険性不明って言ってんるのですよ!」
惣一は、千太を見る。
「だからこそ。」
「私が行く。」
「……。」
反論できない。
聖舩は、しばらく惣一を見ていた。
そして。
静かに。
「一人では行かせない。」
「何?」
「私も同行します。」
ソウヤが。
思わず声を上げる。
「聖舩さんは能力者じゃない!」
「だからだ。」
聖舩は。
海底へ伸びる光を見据えた。
「能力者の内部解析。」
「それが。」
「何を意味するのか。」
「能力を持たない人間の目でも。」
「確認する必要がある。」
千太が父親を睨む。
「……またそうやって。」
「勝手に危ないところ行くのかよ。」
聖舩は息子を見る。
ほんの少し困ったような顔をした。
「お前に。」
「似たんだろう。」
「……は?」
ソウヤが吹き出しそうになる。
千太が固まる。
「今。」
「親父ギャグみたいなの言った?」
「言っていない。」
「いや言っただろ!」
「時間がない。」
「逃げるな!」
ほんの一瞬だけ緊張が緩む。
だが海底の光は待っている。
そして名取惣一と柊聖舩。
能力者と。
非能力者。
二人が。
未知の存在へ向き合うその先に、古代の太陽フレアの能力因子。
そして、世界中で起きている能力自律化。
そのすべてに繋がる、新たな情報が眠っている可能性がある。
ただ、誰もまだ知らない。
海底の存在が「解析」と呼ぶものが。
人間にとって。
どれほど危険な行為なのかを。
――第179話 完




