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Psycer Brain ─ 神に抗え。その力で運命を変えろ─  作者: n217 (嘯江 新)


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178/181

第178話「漆黒の構造体」

 夜明け前の太平洋に浮上した黒い構造体は、巨大な生物のように静穏海域の中央へ鎮座していた。


 海面から露出している部分だけでも、国連安全保障機構の調査船を遥かに上回る大きさがある。しかし船舶らしい構造はどこにも見当たらない。艦首も甲板も窓もなく、巨大な楕円形の外殻には無数の溝が刻まれ、その内部を淡い光が規則正しく走っている。


 そして中央に開いた裂け目の奥には、人の形をした何かが立っていた。


『――能力者を確認。進化段階、観測開始』


 低く、奇妙な声が海上へ響く。


 機械音声のようでありながら、完全な無機質さはない。僅かな呼吸の揺れや抑揚があり、人間が喋っているようにも聞こえる。


 調査船の甲板では柊聖舩が一人、黒い構造体と向き合っていた。その後方では国連安全保障機構の隊員たちが銃器を構えているが、誰一人として引き金には指を掛けていない。聖舩から発砲禁止命令が出ている以上、正体不明の存在が明確な敵対行動を取るまでは動けない。


 一方、艦橋に残るソウヤたちはそれどころではなかった。


「……っ、何だこれ」

 ソウヤは胸元を押さえた。


 心臓が痛いわけではない。頭痛でもない。もっと説明しにくい、身体の奥に存在する何かを直接掴まれているような感覚だった。


 人格変化――Personality changer。


 能力を発動していないにもかかわらず、その存在だけが異様に強く意識へ浮かび上がってくる。


『ソウヤ』

 頭の奥からレイの声が聞こえた。

(レイも分かるのか?)

『ああ。気持ち悪いな。誰かに頭の中を覗かれているみたいだ』


 ソウヤだけではない。

 イレイダは右腕を押さえ、刹那は何もない空間へ手を伸ばしかけていた。夢幻の周囲では発動していないはずの呪詛が微かな気配を漂わせ、千太も自分の能力を抑えるように呼吸を整えている。


 そして惣一だけは、苦痛こそ表情に出していないものの、黒い構造体を鋭く見据えていた。


「名取さん」

「神足通が勝手に発動しようとしている」


 千太が息を呑む。


「抑えられるんですか?」

「今のところはな」


 惣一は静かに右手を握った。


「だが、これまでとは違う。能力そのものがあれへ近づこうとしているように感じる」

「近づこうとしてる……?」

「ああ」


 能力自律化では、本人の感情や意思を能力が過剰に拾い上げている可能性がある。それがタジの仮説だった。


 しかし今の惣一は、黒い構造体へ近づきたいとは思っていない。

 それでも神足通は、明確にあちらへ反応している。


「タジ!」

 ソウヤが通信へ叫ぶ。


『聞こえてる!こっちでも数値が跳ね上がってる!』

「俺たちの能力、どうなってる!?」

『全員の能力反応が上昇中。ただし発動時とは波形が違う。外から刺激されてる……いや、共鳴させられてる感じに近い!』

「止められるのか?」

『そんな便利なボタンねえよ!とにかく能力は使うな!今発動したら何が起きるか分からん!』

「分かった!」


 通信を切ると、ソウヤは甲板へ視線を戻した。


 そこにいる聖舩だけは、何の異常も起こしていない。


 能力者ではないからだ。


     ◇


 聖舩はゆっくりと黒い構造体へ近づいた。


 もっとも、船上から直接向こうへ渡ることはできない。両者の間には数百メートルの海があり、しかもその海域では距離そのものが正常に機能していない可能性がある。


 それでも聖舩が甲板の先端まで進んだのは、敵意がないことを示すためだった。


「こちらは国連安全保障機構、日本支部長。柊聖舩だ」

 拡声器を使わなくとも、声は異様なほどよく通った。

 返答はない。

「こちらに攻撃の意思はない。応答できるなら、所属と目的を明らかにしてほしい」


 黒い構造体の裂け目に立つ人影は動かなかった。

 数秒。

 やがて声が響く。


『――非能力個体』

 聖舩の眉が僅かに動いた。

『――観測対象外』

「能力者だけが目的か」

『――能力因子、未確認。観測価値なし』

「随分と失礼な奴だな」

 艦橋で聞いていたイレイダが呟く。

 千太も苛立ったように顔をしかめた。

「親父を人間としてすら見てないみたいな言い方だな」

「お前が怒るのか?」

 ソウヤが横から尋ねる。

「別に怒ってはない」

「いや今――」

「怒ってない」

「分かったって」


 そんな二人の会話を知らないまま、聖舩は黒い構造体との対話を続ける。


「では質問を変える。世界各地で発生している能力異常に、お前たちは関与しているのか」


 今度は、明確な反応があった。

 構造体表面を走る光が一斉に強くなる。


『――能力自律化』


 その言葉に、聖舩の表情が変わった。

 艦橋にいる者たちも同じだった。


「知っているのか」

『――誤認』

「何!?」

『――自律化ではない』

 聖舩は僅かに目を細めた。

『――能力因子の正常化過程』


 誰もすぐには意味を理解できなかった。


 能力自律化が、正常化。


 マランを暴走させ、フランをハルシオンと融合させ、東京では能力者本人の意思を無視して街の空間を歪めた現象。それを目の前の存在は「正常」と呼んでいる。


「説明しろ」

『――現在の能力者は不完全』

「不完全?」

『――能力因子と肉体の接続率、基準以下。精神構造による抑制多数。能力出力、著しく制限』

 聖舩は返答を急がなかった。

 その説明を艦橋で聞いていたタジが、通信越しに何かを高速で入力している音が聞こえる。

『待って……それって』

「タジ?」

『俺たちが能力の反動だと思ってるものって……もしかして』


 結衣のHealerは体力を消耗する。

 燕のAbility improverも著しい体力消耗を伴う。

 小雨のSleep inducerには、自身まで眠ってしまう危険がある。

 アリスのSpace-time Operatorは視力そのものを代償とする。

 そしてイレイダのPhysical attackerに至っては、能力の使用が内臓へ深刻な損傷を与える。


『能力に身体が耐えられてないということ……?』


 タジの呟きに、惣一が答えた。


「可能性はある。しかし、それだけでは説明できない能力も多い」

『分かってます。でも、あいつが言ってる「接続率」ってのが本当ならば――』


「待て」

 聖舩が通信を制した。


 そして黒い構造体へ向き直る。


「お前たちは能力者の身体を、能力に適応させようとしているのか」

『――肯定』

「本人の意思を無視してか?」

『――意思』

 初めて。

 声が僅かに揺らいだ。

『――精神活動による一時的判断を、進化より優先する理由を確認できず』

 聖舩の目つきが変わる。

「それを人間は意思と呼ぶ」

『――非効率』

「そうかもしれないな」

 聖舩は即答した。

「それでも、人間にとっては重要だ」


 黒い構造体は返答しない。


「マランは自分の力に呑まれかけた。フラガラッハ・F・ミストルティンは戦艦ハルシオンと完全融合しかけた。東京では一人の能力者が、自分の意思に反して周囲一帯を異常空間へ変えた。それがお前たちの言う正常化ならば、こちらは到底、受け入れられない」

『――拒絶を確認』

「ああ」

『――理由、不合理』

「人間だからな」


 艦橋でイレイダが僅かに笑った。


「やはり面白いな、あのおっさん」

「親父だからな」

「そこ誇るところ?」

「別に誇ってない」


 ソウヤが苦笑する。


 だが、その直後だった。

 構造体の光が再び強くなる。


『――非能力個体による判断。評価対象外』

「ならば、能力者本人に聞けばいい」


 聖舩はそう言うと、艦橋を振り返った。


「ソウヤ」

「俺!?」

「来い」

「いや、どうやって!?」

「そこまでは考えていない」

「考えてから呼んでよ!」


 緊張した状況にもかかわらず、千太が吹き出しかける。

 しかし惣一は笑わなかった。


「私が送ろう」

「名取さん?」

「神足通を使う」


 千太がすぐに止める。


「さっき能力を使うなって!」

「承知している。だから最小限だ」

「危険すぎます!」

「それでも能力者本人との対話が必要だ」


 惣一の視線は黒い構造体から外れない。


「それに、試す価値もある」

「何を?」

「この場所で神足通を発動した時、何が起こるのか」

「それを今試すの!?」

 ソウヤの声が裏返った。

「嫌ならばやめるが」

「いや……行きます」


 ソウヤは深く息を吐いた。


「聖舩さん一人に話しさせてても、多分あいつ納得はしないだろう」

「ソウヤ」

 結衣の声が通信から聞こえる。

『無茶だけはしないで』

「分かってる」

『本当に?』

「……できるだけ」

『ソウヤ』

「分かりました!」


 惣一が右手を上げる。


 その瞬間だった。

 神足通が発動するより早く、黒い構造体が反応した。


『――高接続個体』


 惣一の動きが止まる。


「私のことか?」

『――対象識別』


 構造体表面の光が、惣一へ集中する。


『――能力因子接続率、極めて高値』


 タジが通信越しに叫んだ。


『名取さん、待って!数値がおかしい!』

「どうした」

『今まで測った能力者の中で……いや、比較にならない。神足通が共鳴源に引っ張られてる!』


 惣一の周囲で空間が歪む。

 本人はまだ能力を発動していない。

 それなのに神足通が勝手に現実へ干渉し始めていた。


「惣一様!」

 刹那が駆け寄ろうとする。


「来るなッ!!」

 惣一の鋭い声が飛ぶ。


 刹那が足を止めた。

「私は問題ない。まだ制御できている」


 そう言いながらも、惣一の足元では甲板の一部が揺らいでいる。まるでそこだけ現実から切り離されようとしているかのようだった。


『――優先観測対象へ指定』

「勝手に決めるな」

 惣一は低く言い放ち、自らの能力を強引に抑え込んだ。

 歪んでいた空間が元へ戻る。

 タジが驚きの声を上げる。

『……抑えた?』

「この程度で私の能力を奪えると思われては困る」

 ソウヤは思わず苦笑した。

「やっぱ名取さん、とんでもないな……」


 名取惣一。

 陰陽道御三家、名取家次期当主。

 家系歴代随一とまで評される男。


 世界規模の能力異常を引き起こしている可能性のある共鳴源を目の前にしてなお、彼の神足通は完全には支配されていない。

 しかし、黒い構造体にとってはそれこそが興味深い結果だったらしい。


『――高適応性を確認』

「褒められてるぞ」

 イレイダが言う。

「嬉しくはないがな」

 惣一は淡々と返した。


 その時、黒い構造体の裂け目に立っていた人影が初めて動いた。


 ゆっくりと一歩を踏み出す。

 光がその姿を照らした。


 人間だった。


 少なくとも外見だけを見れば、そうとしか思えない。男性にも女性にも見える中性的な顔立ちを持ち、年齢も判然としない。肌は異様なほど白く、身体には衣服というより黒い外殻の一部を纏っているような装甲が張り付いている。


 だが最も異様なのは、その目だった。

 左右で色が違う。

 片方は黒。

 もう片方は、能力が発動した時のアリスを思わせるような淡い光を宿している。


「人間……?」

 ソウヤが呟く。


 その存在は聖舩を一瞥した後、惣一へ視線を向けた。


『――接触を要求』

「私にか」

『――肯定』

「目的は」

『――解析』

「断る」


 即答だった。


『――理由を要求』

「知らない相手に身体を調べさせる趣味はない」

「名取さんでもそういう言い方するんだ……」


 ソウヤが小声で呟く。


 しかし、人影は拒絶されても怒りを示さなかった。感情そのものを理解していないかのように首を僅かに傾け、数秒間沈黙する。


『――接触拒絶を確認』


 そして次に発せられた言葉は、全員の警戒を一気に引き上げた。



『――代替手段へ移行』



 聖舩が即座に反応する。


「全員、警戒!」

 同時に黒い構造体の表面を走っていた光が一斉に赤く変化した。

 国連部隊が銃器を構える。

 イレイダも前へ出る。

 刹那と夢幻は惣一を中心に位置を変えた。

 それでも聖舩はまだ発砲命令を出さない。

「何をするつもりだ」

 問い掛けに対し、人影は淡々と答えた。


『――対象の能力因子を強制活性化』


「名取さん!」

 ソウヤが叫ぶ。


 次の瞬間、惣一の神足通が本人の意思を無視して発動した。


 甲板上の空間が大きく捻じ曲がり、惣一の姿が一瞬だけ二重、三重に増えて見える。海面と空の境界が崩れ、調査船そのものが別の場所へ引きずられそうになるほどの異常が発生した。


「――静まれ」

 惣一の声が響いた。


 その一言と同時に、荒れ狂いかけた神足通が僅かに弱まる。

 だが今度は完全には止まらない。

 黒い構造体が能力を外側から刺激し続けている。


「惣一様!」

「近づくなと言ったはずだ!」

「しかし!」

「私なら問題ない!」

 惣一は額に汗を浮かべながらも、一歩も退かなかった。


 その姿を見ていた聖舩は状況を瞬時に判断し、人影へ向けて声を張り上げる。


「強制活性化を停止しろ!」

『――観測中』

「本人が拒否している」

『――拒絶は解析結果へ影響しない』

「そうか」

 聖舩は静かに拳を握った。

「ならば、こちらも対話の前提を変更する」


 千太が父親を見る。

 その立ち方が変わった。

 重心が僅かに下がり、肩から余計な力が抜ける。銃を抜いたわけでもないのに、明らかに戦闘へ入る人間の構えだった。


「おい……」

 イレイダがそれを見て笑う。

「やっと見られそうだな」

「何が?」

「お前の親父が本気で戦うところをだ」


 聖舩は構造体との距離を測りながら、通信機へ指示を送る。


「国連部隊は、名取惣一の保護を優先。構造体そのものへの攻撃は禁止する。人型個体のみを対象として制圧準備」

『了解』

「イレイダ」

「ようやくお呼びか」

「対象が能力を使用する可能性がある。私が接近する。援護しろ」

「私が前ではなく?」

「相手は能力者を優先観測している。君が前へ出れば何をされるか分からない」


 イレイダは一瞬だけ驚き、すぐに口元を上げた。


「なるほど。無能力者のあんたなら、あいつにとって観測価値が低いということか」

「そういうことだ」


 聖舩は黒い人影を見据えた。

 能力者ではない。

 神足通も、幻剣も、呪詛も使えない。


 それでも彼は長年、能力者を含む数多くの脅威と向き合ってきた。能力に対抗するための知識と技術を身につけ、能力を持たない人間がどこまで戦えるのかを誰より理解している。


 そして何より、今は自分の背後に息子がいる。


「親父」

 千太が呼ぶ。

「何だ」

「……死ぬなよ」

 聖舩は振り返らなかった。

「お前もな」

 その短いやり取りの直後、人型個体の目が淡く発光した。

 惣一の能力反応がさらに上昇する。

「来るぞ!」

 ソウヤが叫んだ。


 聖舩は甲板を蹴った。

 能力による加速ではない。ただ鍛え抜かれた脚力と、最短距離を選び取る身体操作だけで、一気に船首へ駆け抜ける。


 人型個体が初めて聖舩を見る。


『――非能力個体』

「ああ」

 聖舩は速度を落とさない。

『――観測価値なし』

「それは好都合だ」


 黒い構造体と調査船の間には、正常なら到底跳び越えられない距離がある。しかし、この海域では距離そのものが歪んでいる。


 聖舩は直前まで無人探査艇から得られていたデータを頭へ入れていた。一定の周期で、二つの地点間の距離が極端に縮む瞬間がある。


 その瞬間を待つ。


 海面の光が揺らいだ。


「――今だ!」

 聖舩は甲板の端を蹴った。

 数百メートルあったはずの距離が、一瞬だけ数メートルへ縮む。

 能力ではない。

 異常空間そのものを利用した。

 聖舩の身体が海上を越え、そのまま黒い構造体へ着地する。勢いを殺すため前転し、立ち上がると同時に人型個体との距離を詰めた。


「マジかよ……」

 ソウヤが呆然とする。

 千太は驚かなかった。

「だから言っただろ」

 父親を見ながら、ほんの僅かに笑う。


「あの人は能力者じゃない。でも――弱くはない」


     ◇


 黒い構造体へ乗り移った聖舩は、そのまま人型個体へ接近した。


 相手はすぐには動かなかった。

 理解できていないのだ。

 能力を持たない人間。

 観測価値なしと判定した存在。

 その人間が、能力者ですら容易には越えられない異常空間を突破して自分の目の前まで来た。


『――行動予測との差異を確認』

「人間を数字だけで理解しようとするからだ」

 聖舩は踏み込んだ。

 最初の一撃は顔面ではない。

 相手の右腕。

 能力発動の仕組みが不明である以上、まず動きを制限する。

 人型個体が腕を上げて防御する。


 衝突音が響いた。


 聖舩の拳を受け止めた黒い外殻に僅かな亀裂が入る。

 人型個体の表情が初めて変化した。


『――非能力個体の身体出力。基準値超過』

「能力がなければ何も出来ないとでも思ったか」


 次の瞬間、人型個体が反撃した。

 聖舩は頭部を狙った腕を僅かな動きでかわし、相手の懐へ潜り込む。手首を掴み、身体を回転させて重心を崩す。人間と同じ骨格なら通用する。そう判断した技だった。


 しかし、投げる直前に違和感が走った。


「……重い」


 見た目以上の重量。


 聖舩は即座に技を変更し、関節を極めながら膝裏へ蹴りを入れる。人型個体の身体が初めて傾いた。


「おお……!」

 ソウヤが思わず声を上げる。

 イレイダは完全に戦士の目で戦いを見ていた。

「上手いな。力ではない。相手が何ものか分からないからこそ、一手ごとに身体の構造を調べながら戦ってやがる」

「分かるのか?」

「分かるさ。あのおっさん、かなり場数踏んでるぞ」


 千太は答えなかった。

 自分が知っている父親の姿だった。


 能力者ではないからこそ、聖舩は相手の能力を正面から力で突破しようとしない。観察し、仮説を立て、試し、修正する。それを戦闘の最中に繰り返す。


 だが、その時だった。


『――再評価』

 人型個体の声が響く。

 聖舩が距離を取った。

『――非能力個体。特殊例として観測対象へ追加』

「光栄だな」

『――解析開始』


 人型個体のもう片方の目が開く。

 先ほどまで黒かった瞳に、淡い光が宿った。


 同時に聖舩の動きが止まる。


「親父!?」

 千太が叫んだ。

 聖舩の周囲だけ、空間が固定されたかのように動かなくなっている。

 人型個体は彼へ近づきながら、淡々と告げた。


『――能力因子、未確認』

『――肉体性能、基準値を大幅超過』

『――精神抵抗値、高』

『――興味深い』

「……勝手に人を調べるな」


 身体が動かない状態でも、聖舩の声は冷静だった。


 しかし艦橋では別の異常が起きていた。


「待って!」

 ソウヤが自分の頭を押さえる。

 レイが突然、激しく反応したのだ。

『ソウヤ!あいつじゃない!』

(何が!?)

『下だ!』

「下……?」

 ソウヤは海面を見る。

 その瞬間、タジの通信が飛び込んできた。

『全員そこから離れろ!』

「何で!?」

『今まで追ってた共鳴源――』

 タジの声が震えている。


『その黒い構造体じゃない!』


 ソウヤたちの表情が凍りつく。


「どういうことだよ」

『構造体が浮上したせいで、今まで重なってた反応を分離できた。そいつも強烈な能力反応を出してる。でも中心じゃない!』


 タジが新しい解析結果を転送する。

 共鳴源は、さらに深い黒い構造体の真下。

 海底。いや、表示される深度は安定していない。


 数千メートル。

 数万メートル。

 時には計測不能。


 空間そのものが正常ではない。


「じゃあ、こいつは何なんだ……?」

 千太が黒い構造体を見る。

 その疑問に答えたのは、人型個体だった。

『――当機は観測端末』

「端末?」

『――観測、記録、能力因子への刺激を担当』

 聖舩の表情が変わる。

「なら、お前を動かしているものが別にいるのか」

『――肯定』

「何者だ」

 僅かな沈黙。

 人型個体が海面へ視線を落とした。

『――呼称、該当なし』

『――我々は――』


 そこで初めて、黒い構造体全体が大きく振動した。

 海面が揺れる。

 波の存在しなかった静穏海域に、円形の波紋が広がっていく。


 それまで惣一の神足通だけを強く刺激していた共鳴が、一瞬で全員へ拡大した。


「っ……!」

 イレイダが膝をつく。


 刹那の周囲に幻剣の輪郭が勝手に現れ、夢幻の足元から黒い呪詛が滲み出す。千太も歯を食いしばりながら自らの能力を抑え、ソウヤの意識ではレイの存在がかつてないほど鮮明になっていく。


 それでも惣一だけは立っていた。

 神足通が本人の意思を振り切ろうとするほど膨れ上がっているにもかかわらず、惣一は額に汗を浮かべながら能力を押さえ込んでいる。


「私の許可なく動くな」

 誰に言ったのか。

 自分の能力に対してだった。

 その言葉と同時に、神足通の暴走が再び抑え込まれる。

 だが人型個体は、そんな惣一ではなく海の底を見ていた。


『――覚醒反応を確認』

 聖舩が眉を寄せる。

「何が目覚める」

『――不明』

「お前たちにも分からないのか?」

『――肯定』

 初めてだった。

 目の前の存在が、自分たちにも理解できないものの存在を認めたのは。

『――当機群は観測のために存在する』

「誰が作った」

『――記録領域、封鎖』

「解除しろ」

『――権限不足』

「誰の権限だ」

『――回答不能』


 そして次の瞬間、海面が大きく沈んだ。


 まるで海そのものに巨大な穴が開いたように、黒い構造体の周囲から水が中心へ向かって流れ始める。調査船が急激な海流に引っ張られ、艦橋内に警報が鳴り響いた。


「機関最大!この海域から離脱しろ!」

 聖舩が黒い構造体の上から叫ぶ。

「親父はどうするんだよ!」

「私に構うな!船を出せ!」

「ふざけんな!」

 千太が甲板へ飛び出そうとする。

 しかしイレイダが腕を掴んだ。

「離せ!」

「落ち着け!」

「親父が向こうにいる!」

「見れば分かる!」

 イレイダは強引に千太を止めながら、惣一を見る。

「名取ッ!」

「ああ」

 惣一も同じことを考えていた。

「聖舩を回収する」

「神足通は!?」

「使う」

「今の状態でですか!?」


 千太が振り返る。


 惣一は静かに呼吸を整えた。


 神足通は今も共鳴源から強烈な干渉を受けている。発動すれば能力自律化へ繋がる可能性もある。それでも、彼の表情には迷いがなかった。


「能力に使われるつもりはない」

 惣一は右手を上げる。


「使うのは私だ」


 その言葉と同時に、iddhi-vidha-ñāṇa(神足通)が発動した。


 空間が歪む。

 しかし今度は共鳴源による暴走ではない。

 惣一自身の意思によるものだった。

 黒い構造体の上にいた聖舩の姿が消え、次の瞬間には調査船の甲板へ現れる。


「親父!」

 千太が駆け寄る。

 聖舩は着地と同時に片膝をついたが、すぐに立ち上がった。

「船を出せ!」

「もう出してる!」

 調査船は最大出力で静穏海域から離れようとしている。

 ところが距離が縮まらない。

 むしろ黒い構造体が少しずつ近づいている。

「また距離異常か!」

 ソウヤが叫ぶ。

「違う」

 惣一が海面を見る。

「向こうが近づいている」


 黒い構造体が動いているわけではなかった。

 海面に生まれた巨大な窪み。

 その中心へ。

 すべてが吸い寄せられている。

 調査船も。

 黒い構造体も。

 海水も。


 そして周囲の空間そのものまで。


「タジ!下に何がいる!?」

『分からない!でも共鳴値が今までの比じゃない!』

「能力者?」

『それすら分からん!』

 タジが叫ぶ。

『ただ一つだけ言える!』

 転送された数値を見て、ソウヤは息を呑んだ。

『今まで世界中で起きてた能力自律化は、あれの反応のほんの一部だ!』

 全員が海面を見る。

 深く。

 さらに深く。

 人間が観測できないほど歪んだ海底で、何かが動いている。

 そして人型端末は沈み始めた黒い構造体の上に立ったまま、調査船を見ていた。

『――観測対象へ警告』

 聖舩が振り返る。

『――退避を推奨』

「理由は」

 人型端末の淡く光る瞳が、初めて僅かに揺れた。

『――我々の観測対象が』

 黒い構造体の下から、低い振動が海全体へ広がった。

『――我々を認識した』


 その直後、海底から凄まじい能力反応が放たれた。

 衝撃そのものはない。


 しかしソウヤの人格変化、イレイダのPhysical attacker、刹那のPhantom sworder、夢幻のCurser、千太の能力、そして惣一の神足通――船上にいるすべての能力者の力が、一瞬だけ完全に沈黙した。


「……能力が」

 ソウヤが自分の手を見る。

 レイの声すら聞こえない。

 惣一も目を細めた。

「消された……?」


 違う。


 能力そのものが失われたわけではない。

 ただ、より巨大な何かに押さえつけられている。

 そう感じた。


 そして次の瞬間、海底のさらに深い場所から、巨大な光がゆっくりと浮上を始めた。


 黒い構造体を作った存在ですら、その正体を知らない。

 十四年前から海底に眠り、世界中の能力者へ影響を及ぼしながら、それでも完全には目覚めていなかった何か。

 それが今、自分を観測していた者たちの存在を認識したことで、初めて明確な反応を示している。


 聖舩は船体を立て直すよう指示を飛ばしながら、その光を睨んだ。


「全員、撤退準備。ここから先は調査ではない」

 千太が父親を見る。

「じゃあ何だよ」

 聖舩は海底から迫る光を見据えたまま答えた。


「接触だ。しかも――こちらが望んだ形ではない」


 静穏だった太平洋が、初めて大きく荒れ始める。


 そしてその遥か海底から、世界規模の能力異常に繋がる存在が、ゆっくりと彼らのいる海面へ近づき始めていた。


――第178話 完

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