第177話「海底に眠る」
能研ハウスに緊急警報が鳴り響いたのは、日付が変わって間もない頃だった。
眠りに就いていた者も、まだ起きていた者も、ほとんど同時にリビングへ集まってくる。ソウヤは寝癖のついた髪のまま階段を駆け下り、モニター前で端末を操作しているタジへ詰め寄った。
「何があった!?」
「動いた」
「何が?」
「明日行く予定だった場所だよ!」
タジが太平洋の地図を拡大する。問題の座標には赤い点が表示されていたが、その位置は数分前から確実に変化していた。
千太も隣から画面を覗き込む。
「誤差じゃないのか?」
「最初にそれ疑った。でも違う。複数の観測データを重ねても同じ結果だ。海底にある共鳴源らしき反応が、南東方向へ移動してる」
「どれくらいの速さ?」
燕の問いに、タジは新しい数値を表示した。
「今のところ時速二十キロ前後。ただし一定じゃない。止まったり、急に加速したりしてる」
「海底を移動している何か……」
結衣が不安そうに呟く。
マランは壁際に立ったままモニターを見ていたが、その表情は明らかに険しかった。
「生物か?」
「分からん」
タジが首を振る。
「そもそも今拾ってるのは熱源でも音波でもない。能力因子に近い反応だ。しかも十四年前の資料に残ってた記録を復元したら、こいつは当時から『人為的に生成された能力反応』だと判断されてた可能性がある」
ソウヤが眉をひそめる。
「人為的ってことは、誰かが作った?」
「そう考えた奴がいた、って段階。誰が、何のために、どうやって作ったかは何も残ってない」
「オールドマン?」
ネリクマが何気なく口にすると、一瞬だけ室内が静かになった。
タジはすぐに首を振る。
「証拠はない。GENESISのデータとも照合したけど、今のところ直接一致するものは見つかってない。勝手に繋げるのは危険だ」
その慎重さに惣一も頷いた。
「それが正しい判断だ。分からないものへ既知の名前を当てはめると判断を誤る」
ソウヤは画面へ視線を戻した。原因不明の能力自律化。世界各地で増え続ける異常。そして、その発生時刻を遡った先にある太平洋の共鳴源。
ただでさえ不気味なのに、それが今は移動している。
「どこへ向かってる?」
「それが一番嫌なところだ」
タジは進行方向を延長した予測線を表示する。
しばらく海上を進んだ先。
線は日本列島の南方へ伸びていた。
「日本?」
「現時点の進行方向を維持した場合、な。でも直進してるわけじゃないから断定はできない」
その時、タジの端末に国連安全保障機構からの通信が入った。
「来た」
接続する。
『田島君、聞こえるか』
「聞こえてます」
柊聖舩の声だった。
『こちらでも対象の移動を確認した。予定を変更する。調査隊は夜明けを待たずに出発する』
「何時?」
『一時間後』
千太が露骨に嫌そうな顔をする。
「親父も行くのか」
『聞こえているぞ』
「聞こえるように言った」
『そうか』
「相変わらずだな、この親子……」
ソウヤが小声で呟く。
通信の向こうで聖舩は構わず続けた。
『専用調査船の準備はほぼ完了した。移動速度を考えると航空支援も併用する。問題は、対象へ接近した際に何が起こるかだ』
「十四年前みたいな時間や距離の異常?」
『それもある。加えて今回は能力自律化との関連が疑われている。能力者を何人連れていくか、慎重に決める必要がある』
イレイダがすぐに口を挟む。
「私は行くぞ」
『……また君か』
「なんだ、その言い方は」
『前回も言ったが、調査が目的だ』
「だから護衛が要るんだろ」
『無能力者の部隊を同行させる』
「能力が絡んだ相手だとしたら?」
通信の向こうで短い沈黙が生まれた。
「ふっ、図星らしいな」
『分かった。同行を認める』
「今日は潔いな」
『学習した』
イレイダが僅かに笑う。
「そういう奴、嫌いではないがな」
「その会話なんなんだよ……」
千太が呆れたように呟く。
結局、第一調査隊は聖舩を責任者とし、能研からソウヤ、千太、イレイダ。名取家から惣一、刹那、夢幻。加えて国連安全保障機構の無能力者中心の特殊調査部隊が同行することになった。
マランは今回も外された。
「納得できないな」
本人が不満を口にする。
聖舩は通信越しに即答した。
『君は能力自律化の重症例を経験したばかりだ。現時点では連れていけない』
「俺は自分の能力を制御できている」
『今は、だろう』
「……」
聖舩の言葉に、マランは反論できなかった。
ソウヤはそんなマランを見ながら苦笑する。
「今回は留守番を頼む」
「お前に言われると腹が立つ」
「なんでだよ」
「軽い」
「真面目に言ってるって」
「余計に腹が立つ」
ネリクマが横から笑う。
「じゃあ私が見張っとく」
「見張るな」
「また消えようとしたら止める」
「しない」
「前も似たこと言ってた」
「……うるさい」
ほんの少しだけ空気が和らいだ。
だが、タジが新しい観測結果を表示したことで再び緊張が戻る。
「速度が上がった。三十二キロ」
惣一が目を細める。
「急ぐぞ」
◇
一時間後。
港湾区域には国連安全保障機構の専用調査船が待機していた。
全長は大型巡視船より一回り大きい程度。戦艦ハルシオンやイーゼルのような巨大艦と比べれば小さく見えるが、艦橋や甲板には観測機器が多数搭載され、船体側面には無人探査艇や潜水ドローンまで収容されている。
「もっとゴツい船かと思った」
ソウヤが見上げながら言う。
「調査船に主砲でも積んでほしかったか?」
千太が返す。
「いや、そういう意味じゃない」
「お前ら、遠足ではないんだ」
イレイダが二人の後頭部を軽く叩いた。
そのやり取りの少し先で、聖舩は乗船手続きを確認している。制服姿ではなく、実戦用の軽装備へ着替えていた。防弾性のある黒いジャケット、携行装備、通信機器。銃器も携帯しているが、何より目につくのはその身体の動かし方だった。
無駄がない。
乗船用タラップを上がるだけでも重心がほとんど揺れず、能力者ではないことを忘れそうになる。
ソウヤが千太へ小声で尋ねる。
「親父さんって昔からあぁなのか?」
「昔からさ」
「何か格闘技とかやってるのか?」
「一つ二つじゃない。仕事で必要なもの全部やってる」
「全部?」
「近接戦、射撃、制圧術、追跡、サバイバル。俺が子供の頃からずっと」
ソウヤが少し引いた顔をする。
「父親っていうより特殊部隊だな」
「だから嫌なんだよ」
「聞こえているぞ」
前方から聖舩の声が飛んできた。
「地獄耳かよ」
「声が大きいだけだ」
千太は舌打ちして先へ進んだ。
◇
出港から約二時間。
調査船は夜明け前の太平洋を進んでいた。
空はまだ暗く、水平線の一部だけが僅かに白み始めている。海は穏やかだった。むしろ穏やかすぎるほどだった。
艦橋ではタジが能研ハウスから遠隔支援を続けている。
『対象との距離、七十二キロ。移動速度二十八キロ。そっちとほぼ同じ方向へ進んでる』
「追いつけるか?」
聖舩が尋ねる。
『今の速度なら。ただし問題の海域へ近づくほど衛星測位の誤差が増えてる』
「どれくらいだ」
『現在プラスマイナス五百メートル』
「まだ許容範囲だ」
『これ、さっきまで百メートルだったんですけど』
聖舩の表情が僅かに変わった。
惣一も海図を見る。
「既に影響圏へ入り始めているのかもしれないな」
「能力への反応は?」
千太が尋ねる。
ソウヤは自分の胸元へ手を置いた。
「まだ何もない」
『俺も今そっちの能力反応見てる。今のところ異常なし』
刹那も夢幻も同様だった。
イレイダは肩を回す。
「身体も普通だな」
「なら、今のうちにできるだけ近づく」
聖舩がそう判断した時、観測担当の隊員が突然声を上げた。
「支部長」
「どうした」
「前方海域を見てください」
全員が窓の外へ目を向ける。
最初は何も分からなかった。
暗い海。
薄明るくなり始めた空。
それだけに見えた。
だが。
「……波がない」
ソウヤが気付いた。
前方数キロ。
ある地点を境に、海面から波が消えている。
こちら側では船体に波がぶつかり、白い飛沫を上げている。しかし境界の向こうでは、海面が巨大な鏡のように平らだった。
「資料と同じだ」
聖舩が低く言う。
「十四年前に確認された静穏海域……」
千太は思わず息を呑んだ。
衛星画像で見るのとは違う。
実際に目の前にすると、自然現象には見えなかった。
「船、止める?」
ソウヤが尋ねる。
「まだだ」
聖舩は艦橋へ命じる。
「速度を半分まで落とせ。無人探査艇を先行させる」
甲板から一隻の小型無人艇が降ろされる。
遠隔操作で静穏海域へ近づいていく。
「距離五百」
「通信正常」
「四百」
「異常なし」
「三百」
その瞬間。
探査艇が消えた。
「……は?」
ソウヤが瞬きをする。
爆発したわけではない。
沈んだわけでもない。
目の前から突然、存在そのものが消えたように見えた。
「映像は?」
「通信は繋がっています!」
隊員が叫ぶ。
モニターへ探査艇のカメラ映像が表示される。
そこには、調査船が映っていた。
ソウヤたちが乗る船。
しかし、映像の中では遥か遠く水平線の向こうにある。
「待て」
千太が画面と窓の外を見比べる。
「探査艇、どこにいるんだよ」
測位担当が青ざめる。
「座標上では……」
「どこだ」
「調査船の。」
一度。
数値を見直す。
「真横です。」
全員が左舷を見る。
何もない。
波だけ。
「見えない……」
ソウヤが呟く。
通信は繋がっている。
座標上では数メートルしか離れていない。
それなのに。
探査艇からはこちらが水平線の彼方に見え。
こちらからは探査艇そのものが見えない。
「距離がイカれてやがる」
惣一が静かに言った。
「十四年前と同じ現象だ」
聖舩が答える。
「問題は。」
惣一は前方の静かな海を見る。
「この程度で済むかどうかだ」
◇
「探査艇、戻せますか?」
「やっている!」
操縦担当が入力を繰り返す。
探査艇は確かに調査船へ向かっているはずだった。
しかし映像の中では、船が一向に近づかない。
「速度を上げます!」
「待て!」
聖舩が制止する。
遅かった。
探査艇が加速した瞬間、映像が激しく乱れた。
そして、画面が真っ黒になる。
「通信途絶!」
「最後の座標は?」
「変化なし!まだ船の真横です!」
ソウヤが顔を引きつらせる。
「怖すぎるだろ……」
「これ、生身で入ったら戻れないんじゃないのか?」
千太の問いに誰もすぐには答えなかった。
その時。
「……来た」
惣一が呟いた。
「何がですか?」
「能力への反応だ」
惣一は自分の右手を見た。
iddhi-vidha-ñāṇa(神足通)。
発動はしていない。
それなのに、能力が前方へ行こうとしている。
「惣一様?」
刹那も気付く。
「私も……幻剣が」
夢幻も僅かに目を細めた。
「呪詛の能力も反応していますね」
イレイダが自分の腕を見る。
「こちらもだ」
そしてソウヤ。
頭の奥。
『ソウヤ』
(ああ)
レイも前方を見ているような感覚。
「来たぞ」
ソウヤが聖舩を見る。
「能力が反応し始めた」
聖舩は表情を変えない。
「程度は」
「まだ弱い。でも間違いない」
その時。
静穏海域の中央。
海面がゆっくりと盛り上がった。
「何だ……?」
全員が窓へ集まる。
波のない海。
その中央から巨大な何かが浮上してくる。
最初に見えたのは、黒い構造物。
次に無数の金属。
そして。
海水を押し退けながら巨大な物体が姿を現した。
「……船?」
ソウヤが呟く。
「違う」
千太が首を振る。
船にしては形がおかしい。
艦首も甲板も窓もない。
ただ。
巨大な楕円形の黒い構造体。
表面には、無数の溝。
そして、その溝を光が走っている。
タジから通信が入る。
『反応急上昇!』
「分かってる!」
『そいつだ!』
タジが叫ぶ。
『ずっと追ってた共鳴源!』
聖舩の目が鋭くなる。
「全員、警戒態勢」
国連部隊が動く。
銃器を構える。
だが。
「撃つな」
聖舩は、即座に命じた。
「正体を確認するまで誰も発砲するな」
千太が一瞬、父を見る。
聖舩は、黒い構造体だけを見ている。
やがて構造体の中央に一筋の光が走った。
「……開く?」
ソウヤが呟く。
裂け目がゆっくりと開いていく。
その奥は、暗闇。そして、何かが立っている。
人型。
「人……?」
だが、まだ姿は見えない。
惣一が一歩、前へ出る。
「待て」
聖舩が止める。
「何だ」
「私が先に行く」
「お前は能力者ではない。危険だ。」
「だからこそだ」
聖舩は、黒い構造体を真っ直ぐ見る。
「これが能力へ作用する何かなら。」
「まずは、能力を持たない人間が接触するのがいいだろう。」
千太の表情が変わる。
「親父。」
「何だ」
「……無茶すんなよ」
聖舩は、ほんの僅か息子を見る。
「お前にだけは言われたくない。」
「……。」
千太が少しだけ笑った。
聖舩は一人、甲板へ出る。
夜明け前の冷たい風。
黒い構造体。
その中の人影。
距離は数百メートル。
しかし、この場所ではその数百メートルがどれほどの距離なのか誰にも分からない。
聖舩は、それでも一歩前へ出た。
その瞬間、人影が顔を上げる。
そして、調査船にいる能力者たち全員の中で能力が同時に強く脈打った。
ソウヤが胸を押さえる。
「……っ!」
イレイダ。
刹那。
夢幻。
惣一。
全員。
ただ一人。聖舩だけが何も感じていない。
そして、黒い構造体の中から初めて声が響いた。
「――能力者を。」
低い人間の声。
だが。
聞いたことのない妙な響き。
「――確認。」
ソウヤたちの表情が変わる。
そして。
次の言葉。
「――進化段階。」
「――観測開始。」
聖舩は、その声を聞きながらゆっくりと構える。
十四年前から太平洋の海底に存在していた、正体不明の共鳴源。
それは、ただの装置でも自然現象でもなかった。
何かが能力者たちを観測している。
その事実が。
ついに。
目の前へ。
姿を現した。
――第177話 完




