第175話「能力者を救うということ」
惣一のiddhi-vidha-ñāṇa(神足通)が発動した瞬間、千太の視界から街の景色が消えた。
身体が移動した感覚はほとんどない。足元が一瞬だけ頼りなくなり、次に地面を踏みしめた時には、先ほどまで遥か彼方に見えていたソウヤの背中が数メートル先にあった。
「――千太!?」
振り返ったソウヤが驚きの声を上げる。
「お前、一人で何やってんだよ」
「好きで一人になったわけじゃないって!」
「知ってる!だから来たんだよ!」
千太は軽口を返しながらも、すぐに周囲へ目を走らせた。
景色は外から見ていた以上に異常だった。正面にあるビルは手を伸ばせば届きそうなほど近く見えるのに、道路脇のガードレールは何百メートルも先にあるように感じる。空を見上げれば雲さえ引き延ばされ、視界の端では建物が僅かに湾曲していた。
その中心に、今回の能力自律化を起こしている人物が座り込んでいる。
ソウヤが話し続けていたおかげか、先ほど映像で見た時ほど取り乱してはいない。それでも呼吸は浅く、何かの拍子に恐怖が戻れば、再び空間が大きく歪む可能性があった。
「……また誰か来た」
能力者が不安そうに千太を見る。
「大丈夫。こいつは仲間だ」
ソウヤがすぐに説明した。
「そう。別に君を捕まえに来たわけじゃない」
千太は相手を刺激しないよう、少し離れた場所で腰を下ろした。
「俺も能力者だから」
その言葉に相手の表情が変わる。
「能力者……?」
「ああ。外にいる連中の中にも能力者はいる。あんた一人だけがおかしくなったわけじゃない」
「でも、俺は……こんなこと……」
「分かってる。自分でやってる感覚がないんだろ?」
能力者は小さく頷いた。
千太はその反応を見て、父親から渡された通信機を取り出す。予想通り通常通信はほとんど使えず、激しいノイズが続いている。ただ、短距離用に調整されているおかげか、時折声らしきものが混じっていた。
『……太……聞こ……か』
「親父?」
千太が耳へ当てる。
『状……報告……』
「何とか中には入れた。ソウヤも無事。能力者本人とも話せてる」
『了解……無理……するな』
「誰に言ってんだよ」
ノイズが強まり、通信が途切れた。
ソウヤが横から顔を覗かせる。
「親父さん?」
「ああ」
「心配してた?」
「するわけないだろ」
「いや、今の聞く限り普通に――」
「するわけない」
「二回も言わなくても」
千太が睨むと、ソウヤは苦笑しながら黙った。
そのやり取りを見ていた能力者の緊張も、ほんの少しだけ解けたようだった。
千太はそれを見逃さなかった。
「なあ。今、自分の能力がどうなってるか分かるか?」
「……分からない」
「普段は?」
「距離を……少し変えられる。物と物の間とか、自分との距離とか。でもこんな広い範囲なんて無理だ。こんなの、使ったこともない」
「今は使おうともしてない?」
「してない!」
感情が高ぶった途端、遠くにあったビルが一気に迫ってきた。
千太は反射的に身構えたが、ソウヤは動かなかった。
「大丈夫。怒ってないから」
「……ごめん」
「謝らなくていいって。今ので分かったこともあるし」
ソウヤは千太を見る。
「やっぱり感情に反応してる」
「ああ。助けを求めた時は俺たちとの距離を縮めた。怖がった時は遠ざけた。今も感情が強くなった途端に周りが動いた」
能力者は青ざめた。
「じゃあ……俺が何か思うたびに?」
「能力が勝手に叶えてるんだと思う」
千太はハルシオンで起きた出来事を思い出していた。フランの能力もまた、本人の意識や感情を過剰に拾い上げた結果、彼を守るためにハルシオンとの完全融合という異常な答えへ辿り着いた。
今回も似ている。
本人が「来てほしい」と思えば距離を消し、「怖い」と感じれば距離を広げる。能力は命令を無視しているのではなく、むしろ本人の心へ従いすぎているのかもしれない。
「だったら、止めようとするより先に……」
千太が呟く。
「何?」
「いや、試したいことがある」
千太は能力者へ向き直った。
「能力を止めようとしなくていい」
「え?」
「今までずっと『止まれ』って思ってたんじゃないか?」
「当たり前だろ! こんなの――」
「それで止まった?」
能力者は言葉を失った。
「止めようとすればするほど怖くなる。怖くなれば、能力はあんたを危険から遠ざけようとして距離を広げる。だったら、その繰り返しになってるんじゃないか?」
ソウヤも理解する。
「能力を抑え込もうとすること自体が、暴走を強くしてる……?」
「多分な」
確証はない。
それでもマランとフランの例を考えれば、可能性はある。
「じゃあ、どうすれば……」
「まず俺たちを見る」
千太は自分を指差した。
「俺とソウヤはここにいる。あんたの近くにいるけど、何もされてない。あんたも俺たちを傷つけようとしてない。それをちゃんと自分で確認してくれ」
能力者は恐る恐る二人を見る。
ソウヤが笑った。
「ほら。普通だろ?」
「……普通っていう状況じゃないだろ」
「それはそう」
「お前、今くらい真面目にやれよ」
「真面目だよ!」
二人のやり取りに、能力者の口元が僅かに緩んだ。
その瞬間だった。
大きく歪んでいた道路が少しだけ元の形へ戻った。
「……!」
千太とソウヤが同時に気付く。
「今のだ」
「何が?」
「今、空間が戻った」
能力者が驚いて周囲を見る。
「俺、何もしてない」
「それでいいんだよ」
千太は少し笑った。
「何もしなくていい。能力を止めるんじゃなくて、自分が落ち着くことだけ考えろ」
マランもフランも、最後に取り戻したのは力そのものではなかった。
自分は何者なのか。
能力とどう向き合うのか。
そこを見失わなかったから戻ってこられた。
なら今回も同じだ。
能力自律化には、それぞれ違う姿がある。しかし根底にあるものは、能力者本人と能力との境界が崩れていることなのかもしれない。
◇
異常区域の外側では、タジから送られてきた解析データを惣一が確認していた。
能研ハウス側でも現場の観測情報を共有し、能力反応の変化を追っている。
『やっぱり下がってる!』
通信越しのタジの声が響いた。
『完全じゃないけど、異常範囲が一〇三〇から九百八十まで縮小した!』
「内部の二人が何か掴んだらしいな」
惣一は歪んだ空間の中心を見つめた。
その隣では聖舩が現場部隊から報告を受けている。
「行方不明になった隊員二名の位置は?」
『一名を再捕捉しました。境界付近です』
「救出しろ。もう一名は?」
『依然として座標が安定しません』
「捜索を継続。能力反応が低下している今が好機だ」
『了解』
聖舩が通信を切ったところで、イレイダが声を掛けた。
「随分と冷静だな」
「取り乱して何か解決するのか?」
「息子が中にいるんだぞ」
「だから何だ」
「心配ではないのか?」
聖舩は答えなかった。
イレイダは横顔を見ながら笑う。
「分かりやすい奴だな」
「何がだ」
「いや、別に」
聖舩は小さく息を吐いた。
「千太は能力者だ。だからこそ、私があいつの能力を必要以上に恐れている姿を見せるべきではなかった」
突然の言葉に、イレイダが少し驚く。
「昔の話か?」
「ああ」
「本人には言ったのか?」
「言っていない」
「言えばいいではないか」
「簡単に言うな」
「難しくしてるのはあんた自身だろ」
聖舩が初めてイレイダを睨んだ。
「他人の家庭事情に随分踏み込むな」
「目の前であれだけ喧嘩されれば嫌でも分かる」
聖舩は返事をせず、再び前を向いた。
しばらくして、低い声で呟く。
「……あいつが能力者になった時、私は父親より先に安全保障の人間として考えてしまった」
「それで『能力を使うな』と?」
「そうだ」
「最悪な親父だな」
「ああ」
あまりにも素直に認められ、今度はイレイダが言葉に詰まった。
「でも、あんたは能力者を嫌ってるわけではないのだろ?」
「好き嫌いで判断していい立場ではない」
「またそういう言い方する」
「事実だ」
聖舩は遠くに見える息子の姿を探すように目を細めた。
「能力者の中には、私など何千人集まっても止められない者がいる。それでも彼らは人間だ。だからこそ難しい。兵器なら危険になった時点で廃棄できる。人間にはそれができない」
「できない、か」
「少なくとも私は、そうあるべきだと思っている」
その言葉を、イレイダは何も茶化さずに聞いていた。
千太が知っている聖舩と、今ここにいる聖舩。
二人が同じ人物であることに変わりはない。
ただ、人間は何年経ってもまったく変わらないわけではないのだろう。
◇
異常空間の中心では、変化がさらに明確になっていた。
道路の形が正常へ戻り、極端に遠ざかっていた建物も少しずつ本来の位置関係を取り戻している。まだ完全ではないものの、少なくとも能力者の感情が落ち着けば異常も弱まることは確認できた。
「もう少しだ」
ソウヤが励ます。
「でも……また怖くなったら?」
「その時はまた落ち着けばいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
ソウヤは真剣な表情で答えた。
「でも、一回できたんだ。だったら二回目もできる」
能力者は黙って自分の手を見る。
「俺……自分の能力が怖いんだ」
「それでいいんじゃない?」
千太が答えた。
「怖いものを無理に好きになる必要なんてない。でも、自分のものだってことまで否定したら、多分もっと苦しくなる」
その言葉は、自分自身にも向けられていた。
千太が能力へ目覚めた時。
父親から最初に言われたのは「使用するな」だった。
あの瞬間から、自分の力は危険なものなのだと思うようになった。
能力そのものが嫌いだったわけではない。
父親から恐れられたことが、何より嫌だったのかもしれない。
「……俺も昔、自分の能力で家族を傷つけかけた」
ソウヤが千太を見る。
千太は構わず続ける。
「事故だった。制御できなかった。それで父親から能力を使うなって言われた。俺はそれが許せなくて……色々あって、今は絶縁してる」
「何で俺にそんな話を?」
「分からない」
千太は苦笑した。
「でも、今の君を見ていたら思い出した」
能力者は黙って聞いている。
「能力が危険だからって、君自身まで危険な人間になるわけじゃない。少なくとも俺はそう思ってる。だから、今ここで自分まで嫌いになるな」
長い沈黙があった。
やがて能力者はゆっくり息を吸い、そして吐いた。
「……分かった」
その瞬間、世界が変わった。
何かが爆発したわけではない。強烈な光が発生したわけでもない。ただ、歪んでいた街の輪郭が静かに元へ戻っていく。引き延ばされていた道路は本来の長さへ戻り、遠ざかっていた建物も正常な距離へ収まっていった。
ソウヤが周囲を見渡す。
「戻ってる……!」
千太もすぐに通信機を確認した。先ほどまで激しかったノイズが急速に弱まり、やがて明瞭な声が聞こえてくる。
『千太、聞こえるか』
「……親父」
『状況を報告しろ』
「見れば分かるだろ」
『本人の状態を聞いている』
千太は能力者を見る。疲れ切ってはいるものの、意識ははっきりしている。
「大丈夫そうだ。少なくとも今は」
『了解した。こちらから医療班を向かわせる』
「拘束するのか?」
短い沈黙。
『保護する』
「言い方を変えただけじゃないだろうな」
『本人の同意なく収容施設へ移送するつもりはない。ただし検査は必要だ』
千太は能力者を見る。
「検査だって。どうする?」
「……受けるよ。俺も、何が起きたのか知りたい」
「だそうだ」
『了解した』
通信が切れる。
千太は小さく息を吐いた。
「……本当に変わったのか?」
「誰が?」
「親父」
「少しは変わったんじゃない?」
「何でお前が嬉しそうなんだよ」
「親子仲直りイベントっぽいから」
「殴るぞ」
「暴力反対」
二人が話していると、遠くから複数の人影が近づいてくる。
今度は距離が変わらない。
普通に歩いて、普通に近づいてくる。
その先頭にいたのは聖舩だった。
「親父……いや、支部長が自分で来るのかよ」
千太が呟く。
やがて聖舩は三人の前へ到着すると、まず能力者の状態を確認した。
「気分は?」
「少し……頭が痛いです」
「医療班が来る。立てるか?」
「はい」
「無理はするな。検査への協力を頼みたいが、強制ではない。説明を受けてから決めて構わない」
能力者は少し驚いたように聖舩を見る。
「……分かりました」
聖舩が医療班へ引き継いだあと、千太と向き合った。
「怪我は」
「ない」
「そうか」
「……それだけか?」
「他に何がある」
「いや、別に」
またこれだ。
千太は呆れながら父親の横を通り過ぎようとした。
「千太」
「何だよ」
呼び止められ、振り返る。
聖舩は少しだけ言葉を探しているように見えた。
「よくやった」
千太の目が僅かに開く。
子供の頃から何度も聞きたかった言葉だった。
なのに今さら言われると、どう返せばいいのか分からない。
「……気持ち悪いこと言うなよ」
「そうか」
「そこで普通に返すなよ」
「では何と返せばいい」
「知らねえよ!」
ソウヤは隣で笑いを堪えていた。
「お前、笑ったら殴るからな」
「まだ笑ってないって!」
「顔が笑ってる!」
聖舩はそんな二人を見て、ほんの僅かに口元を緩めた。
親子の間にある溝が消えたわけではない。千太が父親の能力者への考え方を全面的に受け入れたわけでもなければ、聖舩が安全保障上の方針を変えたわけでもない。
それでも、完全に背を向けていた二人の間に、小さな変化だけは生まれていた。
◇
その日の夜。
能研ハウスへ戻ったタジは、今回の能力自律化に関するデータをマラン、フランの事例と並べていた。
「三件目……」
結衣が温かい飲み物を机へ置く。
「何か分かった?」
「共通点はある」
タジは三つのデータを画面へ表示した。
「能力自律化って聞くと、能力が持ち主から独立して勝手に暴れてるように見える。でも実際は逆かもしれない」
「逆?」
「能力者本人の意思を無視してるんじゃない。拾いすぎてるんだ」
結衣が画面を見る。
「マランさんは?」
「力への拒絶や恐怖が壊滅を加速させた。フランはハルシオンを失いたくない気持ちと、仲間を守りたい意識が歪んで、能力が『完全融合すればいい』って極端な答えを出した。そして今回も、助けてほしい、怖い、近づいてほしくないって感情を能力がそのまま距離操作へ変換してる」
「じゃあ、能力そのものに意思が生まれてるわけじゃない?」
「まだ断定できない。ただ……」
タジはそこで言葉を止めた。
新しいデータが届いたからだ。
「また?」
結衣が不安そうに尋ねる。
しかしタジはすぐに答えなかった。
世界地図に表示されていた能力異常地点のいくつかが、ほぼ同じタイミングで急激な数値上昇を示している。
「違う。今までとパターンが違うんだ」
「どういうこと?」
「これまでの異常は一人ずつバラバラに起きてた。でも今上がったやつ……発生時刻がほとんど同じだ」
タジが解析範囲を広げると、日本、フランス、アメリカ、インド、オーストラリア。互いに何千キロも離れた地域で、能力反応がほぼ同時刻に変化していた。
偶然と片付けるには一致しすぎている。
さらに詳細を調べたタジの指が止まった。
「……待て」
「何?」
「全員、同じタイミングじゃない」
画面上に波形を重ねる。
僅かな時間差があった。
しかしそれは不規則ではない。ある地点から順番に広がっている。
「これ……」
タジは急いで世界地図へ発生時刻を重ねた。
そして、その中心を逆算する。
「何かが世界中に広がってる」
「能力自律化が?」
「違う。自律化を起こすきっかけだ」
結衣の表情が強張った。
「中心はどこ?」
タジは解析結果を待った。
数秒後、一つの座標が画面へ表示される。
そこは都市ではなかった。
陸地ですらない。
「……海?」
広大な太平洋。
人間が暮らす場所から遠く離れた海域に、すべての時間差を遡った先が集中している。
タジは座標をさらに拡大した。しかし地図上には島も施設もなく、ただ海だけが広がっていた。
「こんな場所から……何が出てるんだよ」
その疑問に答えられる者はいない。
ただ一つ確かなのは、能力自律化が自然発生的に世界中で起きているというこれまでの前提が、崩れ始めたことだった。
マラン、フラン、そして東京で発生した能力異常。その背後には、まだ能研が知らない共通の原因が存在する可能性がある。
タジはすぐにソウヤたちへの緊急連絡を開始した。
世界規模の能力異常は、偶然ではない。
そして太平洋上の何も存在しないはずの海域から、新たな謎が静かに姿を現そうとしていた。
――第175話 完




