第171話「心臓」
フランが膝をついた瞬間、ベルトは迷うことなくその身体を抱き止めた。
「フラン艦長!」
「……そんな大声出すな。聞こえてる」
「だったら心配させないでください!」
「それができたら苦労してないだろ……」
苦しげではあるものの、返ってきたのは間違いなくいつものフランの言葉だった。
つい先ほどまで、ハルシオンはベルトを含め、彼へ近づく者すべてを拒絶していた。それが今は違う。床も壁も動かず、ベルトがフランの身体に触れても攻撃は起こらない。それどころか、これまで頑なに閉ざされていた艦隊中枢のさらに奥――フランの心臓が存在する最深部へ続く道まで開かれている。
ソウヤはその通路を見ながら、ようやく張り詰めていた息を吐いた。
「なんか……急に大人しくなったな」
「安心するのは早い」
隣に立つマランは表情を緩めなかった。
「ハルシオンがフランの命令を完全に受け入れたわけじゃない。今は互いに主導権を奪い合うのを止めただけだ」
「休戦状態ってこと?」
「その状態に近いのかもしれない」
フランのstructūra imperium(構造物制御)は、本来なら彼自身の意思によってハルシオンを操る能力だ。しかし能力自律化によってその関係が崩れ、フランがハルシオンを自分の身体として認識する一方、ハルシオン側もフランを自分の構造の一部として認識し始めてしまった。
操る者と操られる物。その境界が消えた結果、どちらがどちらを動かしているのか分からなくなった。
「でも、道を開けたのはハルシオンなんだろ?」
ネリクマが最深部を覗き込みながら尋ねる。
「そう考えるのが自然だ」
惣一が答えた。
「少なくとも、フラン自身が意図して開いたわけではないらしい」
「じゃあ、何で?」
「それを確かめるために行く」
惣一の視線が通路の先へ向く。
その奥から、一定の間隔で低い鼓動が響いていた。
ドクン――。
音というより振動だった。足元から身体へ伝わり、胸の奥まで震わせる。
フランの心臓。
彼の生命を維持する臓器であると同時に、フランとハルシオンを繋いでいる最重要部でもある。
「艦長、立てますか?」
「ああ。肩だけ貸してくれ」
「無理しないでください」
「今さらだろ」
ベルトに支えられながら、フランはゆっくりと立ち上がった。まだ足元は覚束ない。それでも彼は最深部へ続く通路を見て、僅かに目を細める。
「……あそこに行くのは、随分久しぶりだな」
「艦長でも入らないのですか?」
「必要がないからな。心臓が正常に動いてる限り、わざわざ見に行く趣味はない」
「自分の心臓なのに随分雑ですね」
「毎朝、自分の心臓見に行く奴がいたら怖いだろ」
「それはそうですが」
こんな状況でも、ベルトが相手ならフランは普段通りに話せる。それが今は何より重要だった。
マランの時もそうだった。能力自律化に呑まれかけた彼を引き戻したのは、能力を力として押さえ込むことではなく、マラン自身の意識だった。フランの場合も、本人が自分を見失わないことが突破口になる可能性が高い。
「行こう」
ソウヤの言葉に、全員が最深部へ向かって歩き始めた。
◇
通路へ入った瞬間、空気が変わった。
機械油や金属の匂いが漂う通常の艦内とは明らかに違う。壁には無数の細い光が走り、それらが一定の周期で明滅している。その光は奥へ行くほど密度を増し、やがて血管のような複雑な網目を形成していた。
「前に見た時より酷いな……」
フランが呟く。
「本来は違うのか?」
イレイダが尋ねる。
「ああ。こんなに能力反応が表面化することはない。俺の心臓とハルシオンを繋ぐ部分は、もっと安定してるはずだ」
フランが壁へ手を伸ばす。
「艦長!」
「大丈夫だ」
ベルトが止めるより早く、指先が壁へ触れた。
その瞬間、光が強くなる。
「……っ」
フランが顔を歪めた。
「何が見えた?」
マランが尋ねる。
「見えたというより……感じた」
「何を?」
「ハルシオン自身の意識」
フランは壁から手を離した。
「それら全部だ。機関の回転数、海水温、装甲への負荷、イーゼルの位置……乗員がどこにいるかまで流れ込んできた」
「それ、普段から?」
「ある程度はな。でも今は情報量が多すぎる。人間一人の頭に戦艦一隻分の感覚を全部押し込まれてるようなもんだ」
ソウヤは想像してみた。
自分の身体の感覚だけでも、痛みや疲労が一度に来ればまともに動けなくなる。それが巨大戦艦一隻分となれば、どれほどの情報量になるのか想像もつかない。
「それでハルシオン側も艦長の感覚を受け取っている……」
ベルトの言葉に、フランは頷いた。
「多分な。俺が焦ればハルシオンも焦る。俺が誰かを警戒すれば、こいつもそいつを敵と判断する。イーゼルへ向かったのも……俺がベルトを意識しすぎたせいかもしれない」
「私のせいでさないですよね?」
「違う。私の問題だ」
「ならいいです」
「即答か」
「変な責任を感じたくないので」
「お前は、こういう時だけ切り替えが早いな」
ベルトの態度に、フランは小さく笑った。
その直後だった。
通路全体が大きく脈打った。
フランの笑みが消える。
「……来る」
「何が?」
ソウヤが尋ねた瞬間、全員の頭の中へ凄まじい量の感覚が流れ込んだ。
海。
風。
波。
巨大な船体。
何百もの区画。
機関。
砲塔。
レーダー。
そして、隣を航行する戦艦イーゼル。
「うっ……!」
ソウヤは頭を押さえて膝をついた。
「何だこれ……!」
イレイダや刹那たちも同じだった。惣一でさえ僅かに体勢を崩している。
フランだけが理解した。
「ハルシオンの感覚だ!」
フランの叫びと同時に、全員の視界が一瞬だけ海上へ切り替わる。
実際に移動したわけではない。
ハルシオンが見ているものを、彼らが共有している。
月明かりの海を進む巨大な船体。その隣にはイーゼルがいる。少し離れた場所には救援艇。さらに遠く、日本列島の灯りまで認識できた。
そして、そこへ別の感覚が重なった。
恐怖。
苦痛。
孤独。
「これ……フランの……?」
ネリクマが呟く。
「見るな!」
フランが叫んだ。
だが遅かった。
彼らの中へ、フランの感情が流れ込んでくる。
自分の能力がハルシオンを傷つける恐怖。
乗員を殺してしまう恐怖。
ベルトを傷つける恐怖。
そして何より――自分という人間が消え、ハルシオンという巨大な構造物の一部になってしまうことへの恐怖。
マランはその感覚を受けながら、静かにフランを見た。
「お前も、いろいろと恐れていたことがあったのだな」
「……当たり前だ」
「そうか」
「何がだ」
「俺だけではなかった」
マランはそれ以上言わなかった。
しかしフランには、それで十分だった。
世界を壊せるほどの能力を持つマランですら、自分の力を恐れていた。
ならば、自分が恐怖を感じることも弱さではない。
「……そうだな」
フランは小さく息を吐いた。
「怖いに決まってる」
その言葉を口にした瞬間、不思議なことが起きた。
壁を走っていた光の明滅が、僅かに穏やかになった。
「反応した?」
ソウヤが気付く。
タジから通信が入った。
『今、何した!?』
「何もしてない!」
『ハルシオン全体の能力反応が少し下がったぞ!』
フランは壁を見る。
自分の感情。
それをハルシオンが受け取っている。
「……もしかして」
ベルトが言う。
「先輩が無理に感情を抑えるから、ハルシオン側がそれを異常として受け取ってるんじゃないですか?」
「私がか?」
「艦長、昔からそうでしょう。何でも一人で処理して、平気な顔して」
「お前、今説教する気か?」
「しますよ。この機会に」
「勘弁してくれ……」
「嫌です」
ベルトはフランの腕を支えながら、少しだけ笑った。
「艦長が怖いなら、怖いって言えばいいんです。助けてほしいなら、助けてって言えばいい。ハルシオンにまで格好つける必要ないでしょう?」
フランは何も答えなかった。
ただ、その言葉を否定もしなかった。
◇
最深部へ近づくにつれ、通路は徐々に狭くなっていった。
そして、やがて一行は巨大な円形扉へ辿り着いた。
「ここだ」
フランが立ち止まる。
扉の向こうから、これまで以上に強い鼓動が聞こえている。
ベルトがアクセス端末へ触れた。
「認証を――」
「待て」
フランが止める。
「ここから先は俺がやる」
「でも」
「大丈夫だ」
フランは一人で扉の前へ立った。
右手を伸ばす。
「フラガラッハ・F・ミストルティン。中枢最深部へのアクセスを要求する」
反応はない。
もう一度。
「聞こえてるんだろ」
フランは扉を見つめた。
「俺だ」
壁の光が強くなる。
「お前を操ってきたのも私。お前と一緒に戦ってきたのも私だ」
鼓動。
「だから。」
フランは静かに続けた。
「私をお前の一部にする必要はない」
ドクン──
「お前も。」
フランが手を当てる。
「私の一部になる必要はない」
その言葉に、ベルトが僅かに目を見開いた。
「笑は私だ。」
フランの声が最深部へ響く。
「お前はハルシオンだ。」
長い沈黙。
「でも。」
フランは笑った。
「一緒に戦える。」
扉の中央へ。
一本の光が走った。
「……!」
ロックが解除される。
重い扉が、ゆっくりと左右へ開いた。
その向こうにあった光景を見て、誰もすぐには言葉を発することができなかった。
巨大な円形空間。その中心に、無数のケーブルと構造体に囲まれた透明な容器が存在している。
そして、その中で。
人間の心臓が脈打っていた。
「……あれが」
ソウヤが息を呑む。
フランは静かに答えた。
「私の心臓だ」
ドクン。
鼓動に合わせ、空間全体を走る光が明滅する。
しかし、それだけではなかった。
「待ってください」
ヴァブが端末を見る。
「何だ、この反応……」
ウルスラもデータを確認する。
「心臓以外に、もう一つ強い能力反応があります」
「もう一つ?」
フランの表情が変わる。
「そんなものはないはずだ」
全員が周囲を見回す。
そして。
心臓の下。
巨大な基部。
その内部から。
何かが動く音がした。
ガコン――。
ベルトがフランを庇うように前へ出る。
「何ですか……?」
装甲がゆっくりと開く。
その奥にあったのは機械でも武器でもなかった。
淡く光る、巨大な構造体。
無数の金属部品が絡み合い、まるで第二の心臓のような形を作っている。
「私は……こんなもの作った覚えわない」
フランの声から余裕が消えた。
マランも目を細める。
「なら誰が作った?」
「分からない」
「違う」
惣一が静かに口を開いた。
「誰かが作ったとは限らない」
ソウヤが振り返る。
「どういうことですか?」
惣一は、その巨大な構造体を見据えていた。
「structūra imperiumは構造物を操る能力だ。そして今、その能力は自律化している」
フランの顔が強張る。
「まさか……」
「ああ」
惣一が答えた。
「能力自身が必要と判断し――」
巨大な構造体が。
ドクン、と脈打った。
「新しい構造物を作り出した可能性がある。」
その瞬間、フランの心臓と謎の構造体が同時に鼓動した。
「ぐっ……!」
フランが胸を押さえる。
「艦長!」
ベルトが支える。
タジから絶叫に近い通信が入った。
『能力反応が跳ね上がった!全員そこから離れろ!』
「何が起きてる!」
『分からない!でもそいつ――』
激しいノイズ。
『ハルシオン全体のstructūra imperiumを吸い上げてる!』
謎の構造体から、無数の光が広がった。
フランの心臓。
艦隊中枢。
そしてハルシオン全体へ。
すべてが繋がっていく。
「……こいつが」
フランは苦痛に耐えながら、それを睨んだ。
「私とハルシオンを……繋ぎ直そうとしてるのか?」
マランは首を振った。
「違う」
「では何だ?」
「繋ぐんのでない」
マランの表情に、明確な警戒が浮かぶ。
「一つにする気だ」
フラン。
心臓。
ハルシオン。
その三つを。
一つの完全な存在へ。
外海では、停止していたはずのハルシオンが再び動き始める。
隣を航行する戦艦イーゼルの艦橋に警報が鳴り響き、巨大戦艦の艦体がこれまでとは比較にならない規模で変形を開始した。
そして最深部で、フランは自分の心臓と向き合いながらようやく理解した。
今まで彼らが戦っていたものは、単なる暴走ではない。
structūra imperiumそのものが、自分にとっての「完成形」を作ろうとしている。
「冗談じゃない……」
フランはベルトの肩を借りながら、それでも自分の足で立ち上がった。
「私の身体をどうするかまで、能力に決められてたまるものか!!」
その声に呼応するように、二つの心臓が同時に脈打った。
人間であるフランと、戦艦であるハルシオン。
両者を完全に融合しようとする能力を前に、フラン自身が主導権を取り戻すための戦いは、ついに最深部へ突入した。
――第171話 完




