第166話「帰還と残された異常」
マランの暴走が収束したあとも、
現場にいた誰一人としてすぐに安堵することはできなかった。
周囲にはexcidium(壊滅)によって消失した森と地面が広がり、その中心ではマランが自分の右手を見つめている。能力はもう暴れていない。だが、一度でも自分自身を侵食し始めたという事実は、本人にとって簡単に忘れられるものではなかった。
「……本当に、止まったんだよな?」
ソウヤが慎重に尋ねると、マランはしばらく自分の掌を見つめたあと、小さく頷いた。
「ああ。少なくとも、今は俺の意思に従っている」
「『今は』って付けると怖いんだけど」
「事実だから仕方ないだろう」
「もう少し安心できる言い方ない?」
「ない」
「即答かよ……」
いつものようなやり取りに、ネリクマが小さく笑った。先ほどまでマランへ抱きついて離れなかった彼女も、ようやく少し落ち着いたらしい。
その一方で、アランダの腕の中ではネネがまだ眠っていた。Mental operatoreを限界以上に使用したことで、右目には強い負担が残っている。結衣は通信越しに状態を確認しながら、早急に能研ハウスへ戻るよう指示していた。
「とにかく帰ろう。ネネちゃんもちゃんと診ないと危ないし、ソウヤも一度身体を調べた方がいい」
『俺も?』
「精神世界に入ったんでしょ?」
『入ったっていうか、勝手に入れられたっていうか……』
「どっちでもいいから!」
『はい……』
通信越しの結衣の声に押され、ソウヤは苦笑した。
惣一も帰還に異論はなかった。むしろ問題は、その方法だった。神足通は既に安定しているように見えるが、先ほど能力が自分の意思を追い越して発動しかけた事実がある。再び長距離移動に使えば、何が起こるか分からない。
「来た時と同じく車で戻る。時間は掛かるが、その方が安全だ」
「名取さん、だんだん車移動に慣れてきてない?」
「何か問題があるか」
「いや、ないけど」
「なら乗れ」
「はい」
こうして一行は、消失した山間部をあとにした。
マランだけはしばらくその場に残り、壊滅によって失われた景色を見つめていた。自分が意図して壊したものではない。それでも、自分の力が生み出した結果であることに変わりはない。
ネリクマが数歩先で振り返る。
「マラン?」
「……今行く」
マランは最後に一度だけ荒れ果てた大地を見た。そして、静かに踵を返した。
◇
能研ハウスへ戻った時には、すでに夜が近づいていた。
到着と同時に結衣がネネを医務スペースへ運び、アランダも付き添った。幸い失明に至るような損傷は確認されなかったものの、しばらくMental operatoreの使用は禁止された。
「聞いてる?」
「……はい」
ベッドに座るネネは、珍しく素直だった。
「最低でも数日は右目を休ませること。痛みが強くなったり、見え方がおかしくなったらすぐ教えてね」
「うん」
「絶対だからね?」
「分かった」
「本当に?」
「結衣さん、疑いすぎ」
「今日無茶した人に言われたくありません」
「……ごめんなさい」
横で見ていたアランダが小さく笑う。
「あなた、こういう時は随分素直なのね」
その言葉を聞いたネネは少しだけ頬を膨らませたが、やがて自分の膝へ視線を落とした。
「でも……助けられた」
アランダも少し表情を和らげる。
「ええ」
「マラン、帰ってきた」
「そうね」
その声には、アランダ自身の安堵も滲んでいた。
◇
リビングでは、タジが現場から戻ったソウヤたちを待ち構えていた。
「で!?」
「ただいまの一言くらい言わせろよ」
「そんな暇あるか!どうやって止めた!?」
「圧がすごいな……」
ソウヤがソファへ腰を下ろすと、タジはすぐ端末を手に近づいてきた。
「精神世界に入ったんだろ?何が見えた?どうやって戻した?マランの能力因子は今どうなってる?」
「一個ずつ聞け!」
「全部重要なんだよ!」
そのやり取りを見ていたイレイダが、椅子へ座りながら口を挟む。
「簡単に言えば、マランが自身の能力を拒絶するのをやめた」
「簡単すぎる!」
「なら本人に聞け」
全員の視線がマランへ向いた。
「……俺か?」
「当事者だろ」
マランは露骨に嫌そうな顔をしたが、逃げはしなかった。タジの説明を聞きながら、自分の中で起きたことを可能な限り言葉にしていく。
「最初は、能力が勝手に発動するだけだった。それが次第に、俺自身へ干渉し始めた。感情というか……衝動に近い。壊せ、と言われているような感覚があった」
「能力から?」
「ああ。ただし、声を聞いたわけじゃない」
タジは高速で記録する。
「それで自分の能力を抑えようとした?」
「いつも通りにな」
「そしたら悪化した」
「……ああ」
タジの手が止まる。
「やっぱりか」
「何か分かったのか?」
「まだ仮説だけど」
タジはGENESISから回収した研究データをモニターへ映した。
「オールドマンの研究に、能力因子の『反発』についての断片がある。能力者が自分の能力へ極端な拒絶反応を持っている場合、能力因子との適合に歪みが出る可能性があるらしい」
ソウヤが首を傾げる。
「拒絶すると暴れやすくなるってこと?」
「今回の異常が起こる前なら、必ずしもそうじゃない。むしろ能力を抑えるのは普通だった。でも今は能力因子そのものが過敏になってる。そこで強く抑えつけると、逆に反発する」
燕が静かに頷いた。
「能力を制御することと、能力そのものを拒絶することは違う……ということでしょうか」
「多分な」
タジはマランを見る。
「お前、自分の能力嫌いだろ」
部屋の空気が一瞬止まった。
「田島」
結衣が低い声で呼ぶ。
「いや! 大事なことだって!」
マランは怒るでもなく、少しだけ考えたあと答えた。
「……嫌いだった」
「過去形?」
「今も好きじゃない」
「そこは変わらんのか」
「宇宙まで壊せるかもしれない力を好きになれと言われても困る」
「それはそう」
タジが素直に納得する。
「ただ、もう無くしたいとは思わない」
マランが続けた。
「これは俺の力だ。危険だからこそ、俺が持っていなければならない」
惣一が、その言葉に僅かに目を細めた。
「それでいい」
マランが横を見る。
「何だ」
「能力に呑まれないために必要なのは、盲目的に肯定することではない。恐れた上で、自分の一部として認識することなのだろう」
「……お前に同意されると妙な気分だな」
「私もだ」
「そこは否定しろ」
ソウヤが思わず笑う。
名取惣一とマラン。少し前なら真正面から戦えばどちらが勝つかという緊張しかなかった二人が、今は同じテーブルを囲んで能力について話している。その光景はやはり妙だった。
◇
しかし、マランを救えたからといって状況が改善したわけではない。
「最新集計」
タジが画面を切り替えた。
「能力自律化の疑いがある事例。六十八件」
「また増えたのか……」
ソウヤの表情が曇る。
「しかも、これは確認できたものだけ。報告速度も上がってる。マランの件から分かったことを世界中にそのまま適用できるかは分からないし、能力ごとに性質が違いすぎる」
「それでも手掛かりは得た」
惣一は画面を見つめながら言った。
「本人の精神状態と能力の関係。共鳴による意識への接触。そして、能力をただ抑圧するだけでは逆効果になる可能性。少なくとも、何も知らなかった昨日とは違う」
「問題は、それをどうやって六十八人にやるかですよ」
「……そうだな」
夢幻の言葉に、惣一もすぐには答えなかった。
一件ずつ能研が現場へ向かうのは不可能だ。しかも今後、六十八件が百件、千件へ増えない保証もない。
そして、さらに問題がある。
「マランであの規模なら」
イレイダが腕を組む。
「他にも強力な能力者が自律化したらどうなる」
「……。」
部屋の空気が重くなる。
誰もが思い浮かべる人物がいた。
名取惣一。
イレイダ。
能力によっては一人の暴走で街そのものが危険になる。
そしてこの世界には、能研やマスタークラウン以外にも数多くの能力者がいる。
「世界中の能力者を把握する必要があるな」
「簡単に言いますね」
タジが疲れた声を出す。
「お前ならできる」
「その信頼重い!」
「期待している」
「惣一さんに真顔で言われると断れねぇ!」
◇
その頃、別室ではグランが静かに目を覚ました。
目を開いて最初に見えたのは天井だった。
「……。」
自分がどこにいるのか分からない。いや、見覚えはあるような気がする。ただ、記憶が霧に覆われている。
ゆっくり身体を起こそうとした瞬間、強い頭痛が走った。
「ぐっ……!」
「動かないで!」
ネネの声。
グランが横を見る。
「……ネネ」
「起きた?」
「ああ……たぶん」
アランダも椅子から立ち上がった。
「気分は?」
「最悪だ」
「それだけ言えるなら大丈夫そうね」
「随分な基準だな」
グランは額へ手を当てる。
「私は……どれくらい寝ていた」
「そんなに長くないよ」
「……そうか」
ネネはグランの表情を慎重に見ている。
「覚えてる?」
「何をだ」
「戦い」
グランの動きが止まった。
名取惣一。
マラン。
強制執行。
断片的な映像が頭の中に浮かぶ。
「……私は負けた」
「うん」
「名取に」
「うん」
「マランへ……能力を使った」
ネネは答えなかった。
グランは目を閉じる。
「そうか……」
その表情に怒りはなかった。
むしろ、自分自身に対する理解が追いついていないように見える。
「マランは?」
「無事」
ネネが答えた。
「ちょっと大変だったけど、帰ってきたよ」
「……帰ってきた?」
その言葉が、グランには妙に引っ掛かった。
マランはマスタークラウンを離れると言った。
ならば「帰った」のは、自分の元ではない。
「俺は……」
何かを言おうとしたが、言葉が続かなかった。
アランダはそんなグランをしばらく見ていたが、無理に話させることはしなかった。
「今は休みなさい。あなたにも考える時間が必要よ」
「考える……?」
「ええ。これからどうするのか」
グランは黙った。
今までは自分が決めていた。
世界をどうするか。
能力者をどうするか。
仲間をどう動かすか。
すべてを。
だが今は、その「正しい」と信じていたものさえ曖昧になっている。
「……そうだな、そうさせてもらう」
それだけ答え、再び枕へ頭を預けた。
◇
翌朝。
能研ハウスには、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。ペインは相変わらず朝食を大量に食べ、柚季と「パンを何個食べれば気が済むのか」で言い争っている。ラルゴも横で黙々と食べ続け、その量を見た燕が家計を心配し始めていた。
「これ、食費どうするんですか……?」
「ペインに払わせろ」
イレイダが即答する。
「金持ってねぇよ」
「働け」
「殺し屋以外の職歴ないんだけど」
「最悪だな」
「率直すぎない?」
ソウヤはそのやり取りを聞きながら、昨夜ほとんど眠れなかった頭を掻いた。レイとの精神世界での出来事もそうだが、能力自律化について考え始めると眠気が消えてしまう。
『気にしすぎだ』
(お前は気楽だな)
『俺は頭の中に住んでるからな』
(家賃払えよ)
『何でだ』
(何となく)
そんなくだらない会話をしていた時だった。
タジの端末から、緊急通信音が響いた。
「……またか」
ソウヤの表情が引き締まる。
「今度はどこだ?」
タジが受信画面を見る。
「待て。普通の能力異常報告じゃない」
「じゃあ何?」
「暗号化された軍用回線……いや、これ」
タジの顔色が変わる。
「知ってる識別コードだ」
惣一も席を立つ。
「どこからだ!!」
タジは通信を開いた。
激しいノイズの向こうから、人の声が聞こえてくる。
『――こちら――応答を――』
「聞こえてる! 所属を名乗れ!」
『――能研……なのか?』
聞き覚えのある声。
イレイダが眉を寄せた。
「おい、この声……」
ノイズが一瞬だけ弱まった。
『こちら――戦艦……』
通信が途切れる。
「おい!」
タジが回線を繋ぎ直す。
「もう一回!」
数秒後。
声が戻る。
今度は、はっきり聞こえた。
『こちら戦艦ハルシオン。能研、聞こえるなら応答してくれ!』
室内の空気が変わった。
「ハルシオン……?」
ソウヤが立ち上がる。
通信の向こうでは警報音が鳴り続けていた。人々が叫ぶ声、金属が激しく軋む音、何かが崩れる轟音まで聞こえてくる。
タジが声を張る。
「状況を説明してくれ!」
『艦長、フラン艦長が――』
通信の向こうで一際大きな衝撃音が響く。
『フラン艦長の能力が制御不能になった!』
惣一の目が鋭くなる。
structūra imperium(構造物制御)。
構造物全般を自在に操り、戦艦ハルシオンそのものを制御するフラガラッハ・F・ミストルティン(フラン)の能力。そして彼の心臓は艦内に存在し、身体と艦は深くリンクしている。
もし、その能力が自律化したなら。
危険なのはフラン一人ではない。
戦艦そのものだ。
『頼む!』
通信の向こうの声は切迫していた。
『ハルシオンが――俺たちを襲ってる!』
誰も言葉を発しなかった。
世界規模で広がり続ける能力自律化。その波はついに、彼らがよく知る巨大戦艦にまで到達していた。
惣一は静かに立ち上がり、モニターへ視線を向けた。
「場所を特定しろ」
「もうやってます!」
タジが端末を操作する。
ソウヤも席を立つ。
「行きましょう!」
「ああ。ただし、今までとは規模が違う」
惣一の声は冷静だったが、その表情には警戒が浮かんでいた。
「今度の相手は、一人の能力者ではないかもしれない」
通信の向こうで、再び金属が悲鳴を上げる。
そして遠く離れた海上では、巨大戦艦ハルシオンの艦体が、まるで一つの生物のように静かに形を変え始めていた。
――第166話 完




