第165話「過去」
マランの精神世界に広がる暗闇は、静寂とはほど遠かった。
音があるわけではない。それでもソウヤには、空間そのものが軋んでいるように感じられた。遠くに立つ幼いマラン。その背後には両親の姿があり、さらに奥では形を持たない巨大な黒い影が蠢いている。
そして今、その世界にはソウヤとレイだけでなく、ネネまで入り込んでいた。
「ネネ!大丈夫か!?」
「……大丈夫」
そう答えながらも、ネネは右目を押さえていた。
現実世界で発動したMental operatore(精神操作)によって、無理やりマランの精神へ接続している。元々長時間の使用に耐えられる能力ではないうえ、右目にはこれまでの酷使による負担が残っている。
「大丈夫には見えねぇけど」
「でも、帰らない」
ネネは幼いマランを見た。
「あの人を連れて帰るまで」
普段の彼女からは想像できないほど強い声だった。
ソウヤはそれ以上止めなかった。自分だって似たようなものだ。能力因子の共鳴に引き込まれ、どうやって現実へ戻ればいいのかすら分からない。それでも、目の前にマランがいる以上、放って帰るという選択肢はなかった。
「で、どうする?」
ソウヤが隣を見る。
レイは黒い影から視線を外さない。
「まず勘違いするな。あれを倒せば終わる、なんて単純な話じゃない」
「じゃあ何なんだよ」
「言っただろ。あれはマランが自分の能力を恐れ続けた結果だ。壊滅そのものというより、能力に対してマランが抱えてきた恐怖が形になったものに近い」
ネネが小さく呟いた。
「……ずっと怖かったんだ」
「ああ。多分な」
マランは全能力者の中でも最強クラスの力を持つ。宇宙すら破壊できると噂されるほどのexcidium(壊滅)。それほどの力を持っていれば、恐れるものなどないように見える。
だが実際は逆だった。
最も恐れていたのは、マラン自身だったのかもしれない。
◇
現実世界では、状況がさらに悪化していた。
マランの身体を包む黒い力は先ほどよりも濃くなり、その周囲では空間が不規則に消滅している。惣一は神足通による足場を維持しながら全員を安全圏へ退避させていたが、その安全圏そのものが少しずつ失われつつあった。
その中央にはマラン。
少し離れた場所には、意識を失ったソウヤ。
そしてネネ。
二人とも呼吸はしている。しかし、呼びかけには一切反応しない。
「これ、本当に大丈夫なのか?」
ペインが珍しく真剣な表情で尋ねた。
「大丈夫に見えるか?」
イレイダが返す。
「見えない」
「なら聞くな」
「今日みんな俺に冷たくない?」
「普段のお前の行いだ」
「ひど」
軽口を叩きながらも、ペインはマランから目を離さなかった。
マスタークラウンに所属していた頃、何度もマランの戦いを見ている。あの男が本気で能力を解放すればどうなるか、正確には誰も知らない。マラン自身でさえ知らないのだから当然だ。
「……なあ」
ペインが呟く。
「マランの奴、前からあんな感じだったのか?」
アランダが振り返る。
「あんな感じって?」
「能力使う時さ。いっつも抑えてただろ」
「ええ」
「俺、あいつが本気でexcidiumの能力を使ったところ、ほとんど見たことねぇんだよ」
アランダは黙った。
「グランですら、マランには無茶な命令しなかった。あいつがキレるとネネを呼んでたし」
「それだけ危険だったということでしょう」
「それもあるけどさ」
ペインは頭を掻いた。
「もしかしてマランって、俺らを守ってたんじゃねぇの?」
アランダが目を見開いた。
ペインは続ける。
「俺とかラルゴとか普通に暴れてたじゃん。グランなんて言うまでもねぇし。でもマランは、自分の力だけは絶対に必要以上に使わなかった。敵を気遣ってたんじゃなくて……近くにいる俺らまで消し飛ばすのが嫌だったんじゃね?」
「……。」
「まあ本人に聞いたら否定しそうだけど」
「確実にするでしょうね」
「だろ?」
ペインは少しだけ笑った。
そしてすぐ、真顔へ戻る。
「だから死なせんなよ」
その言葉が誰に向けられたものなのか、アランダには分からなかった。
◇
精神世界。
ソウヤたちは幼いマランへ近づこうとしていた。
しかし一歩進むたびに、周囲の景色が変化する。
暗闇の中に、記憶が浮かび上がってくる。
幼いマラン。
両親。
まだ能力が弱かった頃。
小さな物を壊す程度だった力。
そして。
成長するにつれ。
その規模が大きくなっていく。
最初は石。
次は家具。
壁。
建物。
そしてある日。
マラン自身が「どこまで壊せるのか」を怖がるようになった。
「やめろ……」
幼いマランの声が響いた。
記憶の中。
少し成長したマランが、自分の両手を見ている。
『使っちゃ駄目だ』
少年は繰り返す。
『もっと強くなったら……誰かを殺してしまう』
ソウヤは黙ってその光景を見ていた。
やがて記憶が変わる。
両親が殺害された日。
能力者によって。
マランの世界が壊れた日。
そこだけは映像が不安定だった。怒り、悲しみ、憎悪が混ざり合い、記憶そのものが黒く染まっている。
そして。
初めて。
マランは自分から能力を解放した。
黒い力が周囲へ広がる。
すべてが消えていく。
「……。」
ネネが目を逸らした。
「見たくないなら見なくていいぞ」
ソウヤが言う。
「見る」
ネネは首を振った。
「マランさんがずっと一人で見てたものだから」
ソウヤは何も言えなくなった。
その隣で、レイだけが記憶を冷静に観察している。
「なるほどな」
「何か分かった?」
「あいつが能力者を憎んだ理由だけじゃない」
レイは記憶の中のマランを見る。
「マランは、自分自身も憎んでる」
「……自分を?」
「両親を殺したのは能力者。そして自分も能力者だ。しかも、自分が持っているのは誰よりも危険な力。能力者への復讐を望みながら、本人がその能力者の極端な象徴みたいな存在になってる」
ソウヤは息を呑んだ。
「だからずっと自分の力を抑えてた?」
「それだけじゃないだろうけどな」
レイは黒い影を見る。
「あれだけ巨大になる程度には、自分の能力を拒絶し続けてきたってことだ」
◇
幼いマランの前へ辿り着いた。
「マラン」
ソウヤが呼ぶ。
少年は振り返らない。
「お前、こんなところで何してんだよ」
「……待ってる」
「誰を?」
「父さんと母さん」
少年の視線の先。
二人の姿。
しかし輪郭は薄く、今にも消えそうだった。
「帰ってくるから」
マランは言う。
「待ってたら帰ってくる」
ソウヤは言葉に詰まった。
ここは現実ではない。
マランの精神。
彼の最も深い場所。
理屈で説得する意味などないのかもしれない。
「帰ってこないよ」
ネネが言った。
ソウヤが振り返る。
「お、おい」
「帰ってこない」
幼いマランが初めてネネを見る。
「……誰?」
「ネネ」
「知らない」
「うん。この頃はまだ会ってないから」
ネネはマランの前へしゃがんだ。
「でも、私は知ってる」
「何を?」
「大きくなったあなた」
少年は黙る。
「怖い顔してる」
「……。」
「あんまり笑わない」
「……。」
「一人で何でもやろうとする」
「……。」
「あと、すぐどっか行く」
「悪口しか言ってなくない?」
ソウヤが思わず突っ込む。
ネネは少し考えた。
「でも優しい」
少年の目が僅かに動いた。
「マランさんは、自分のこと悪い人だと思ってるかもしれないけど。私が能力を使いすぎたら止めてくれた。右目が痛い時も休めって言ってくれた」
ネネは小さく笑う。
「グランさんに怒られそうな時、何回か助けてくれた」
「……覚えてない」
「今のマランさんは覚えてる」
ネネは手を伸ばした。
「だから帰ろう」
「……どこに?」
「みんながいるところ」
幼いマランは、差し出された手を見つめた。
その瞬間。
巨大な黒い影が動いた。
◇
空間が揺れた。
「ネネ、下がれ!」
レイが二人の前へ出る。
黒い影から伸びた何かが、地面を抉るように迫る。ソウヤはネネを抱えて横へ転がり、直後に彼らがいた場所が暗闇へ呑まれた。
「やっぱり簡単にはいかねぇか!」
「当たり前だ!」
レイが黒い影へ向かって走る。
「おいレイ!?」
「ここが精神世界なら、俺にもできることはある!」
レイが拳を振り抜く。
黒い影と衝突。
衝撃が空間全体へ広がった。
「うおっ……!」
ソウヤが踏ん張る。
「レイ、お前そんなことできるの!?」
「知らん!」
「知らんのかよ!」
「初めて来た場所なんだから知るか!」
「堂々と言うな!」
レイは再び黒い影へ拳を叩き込んだ。
だが影は消えない。
むしろ。
攻撃を受けるほど巨大になる。
「レイ!殴るのやめろ!」
「何?」
「それ、マランの恐怖なんだろ!?攻撃したら余計に『能力は危険だ』って認識強くするだけじゃないのか!?」
レイの拳が止まった。
「……なるほど」
「そこは気付いてくれよ!」
「ならお前がやれ」
「何を!?」
「説得」
「俺!?」
「得意だろ」
「いつから!?」
そんな二人を。
幼いマランが見ていた。
「……変な奴ら」
初めて。
ほんの少し。
少年の表情が緩んだ。
◇
現実世界。
「……笑った?」
アランダが呟いた。
「誰が?」
ペインが尋ねる。
「マラン」
「は?」
よく見る。
黒い力に包まれ。
苦痛に歪んでいたマランの表情。
ほんの僅か。
口元が動いていた。
「マジだ……」
だが。
同時に。
ネネの身体が大きく震えた。
「ネネ!」
アランダが支える。
右目から。
一筋。
血が流れていた。
「まずい!」
結衣が通信越しに叫ぶ。
『ネネちゃんの能力を止めて!これ以上は右目が耐えられない!』
「でも止めたら!」
『失明する可能性がある!』
アランダの顔色が変わる。
「ネネ!聞こえる!?」
返事はない。
「お願い、戻ってきて!」
それでも。
ネネの右目は開いたまま。
Mental operatoreは解除されない。
アランダが無理やり眼帯を戻そうとする。
その時。
ネネの手が。
アランダの腕を掴んだ。
「……まだ」
「ネネ!?」
意識は戻っていない。
それでも。
口だけが動いた。
「まだ……駄目……」
「もう十分よ!」
「マラン……まだ……」
アランダの手が止まる。
「帰って……ない……」
◇
精神世界。
幼いマランの背後で。
両親の姿が。
ついに消え始めた。
「待って!」
少年が走ろうとする。
だが。
ネネが腕を掴んだ。
「離して!」
「駄目!」
「父さんと母さんが!」
「分かってる!」
「離せ!」
少年が泣き叫ぶ。
「帰ってくるんだ!」
ネネも。
泣いていた。
「帰ってこない!」
「嘘だ!」
「でも!」
ネネは手を離さない。
「マランには、帰るところがある!」
少年が動きを止めた。
「……ない」
「ある!」
「ない!」
「あるよ!」
ネネが叫んだ。
「私がいる!」
静寂。
「アランダお姉ちゃんもいる!」
「……。」
「ペインもいる!」
ソウヤが思わず口を挟む。
「そこはちょっと不安だな」
「おい」
レイが睨む。
「ごめん」
ネネは続けた。
「ラルゴもいる。グランもいる。今は……能研のみんなもいる」
「敵だろ」
「昨日までね」
「……昨日まで?」
「うん」
ネネは少し笑った。
「色々あったの」
「雑だな」
ソウヤが呟く。
「ソウヤ黙って」
「はい」
ネネは再び少年を見る。
「だから。」
手を差し出す。
「帰ろう。」
幼いマランは。
その手を見る。
そして。
背後。
消えていく両親を見る。
長い。
長い沈黙。
やがて。
父親の姿が。
微かに笑った。
母親も。
少年へ。
何かを伝えるように。
口を動かした。
声は聞こえない。
それでも。
マランには。
分かった。
「……。」
少年の目から。
涙が流れる。
「父さん……」
父親が消える。
「母さん……」
母親も消える。
少年は。
泣いた。
声を上げて。
ずっと。
誰にも見せなかったものを。
全部吐き出すように。
ネネは何も言わず。
その隣に座った。
ソウヤも。
レイも。
黙っていた。
やがて。
少年が顔を上げる。
「……帰る」
ネネを見る。
「うん」
「でも。」
「?」
「俺。」
少年は背後の巨大な黒い影を見る。
「こいつが怖い」
ネネも影を見る。
「うん」
「消したい」
「駄目」
「……なんで?」
ネネは。
少し考えた。
「それも。」
少年を見る。
「マランさんだから。」
その言葉に。
黒い影が。
初めて動きを止めた。
◇
ソウヤは、その言葉の意味を考えた。
能力を拒絶する。
恐れる。
封じる。
それを続けてきた結果が。
今。
マラン自身を呑み込もうとしている。
「そういうことか……」
レイも気付いた。
「ああ」
ソウヤは黒い影を見る。
「倒すんじゃない」
「受け入れさせる」
マランに。
自分自身の力を。
ソウヤは少年の隣へ立った。
「マラン」
「何」
「怖くていいんじゃねぇか?」
少年が見る。
「俺も自分の能力怖かったし」
「お前も?」
「ああ」
ソウヤはレイを見る。
「こいつに身体取られるんじゃないかって、ずっと思ってた」
「今も可能性はあるぞ」
「今言うなよ!」
「事実だ」
「空気読め!」
少年が。
少し笑った。
「でも。」
ソウヤも笑う。
「今は分かってる」
レイを見る。
「こいつは俺の敵じゃない」
レイは何も言わなかった。
「能力って。」
ソウヤは黒い影を見る。
「多分。」
「使うか。」
「捨てるか。」
「そういう二択じゃないんだよ」
幼いマランが。
ゆっくり黒い影へ向き直る。
怖い。
今にでも逃げたい。
それでも一歩ずつ歩く。
「マラン」
ネネが呼ぶ。
「大丈夫」
少年は。
振り返らなかった。
「今度は。」
黒い影へ。
手を伸ばす。
「逃げない」
触れた。
その瞬間。
精神世界全体を覆っていた黒い影が。
マランの手へ吸い込まれ始めた。
「……!」
ソウヤたちが見守る中。
巨大な恐怖。
拒絶。
憎悪。
そして。
excidium(壊滅)へ向けてきた全ての感情が。
一人の少年へ戻っていく。
少年の姿が。
少しずつ変わる。
成長し。
今の。
マランへ。
「……俺の力だ」
成人したマランが。
自分の右手を見る。
「怖い。」
握る。
「今でもな。」
それでも。
もう。
手を離さない。
「だが。」
マランは。
ソウヤたちを見る。
「俺が使う。」
そして。
静かに。
言った。
「俺の力が、俺を使うんじゃない。」
精神世界に。
光が差し込んだ。
◇
現実。
マランを覆っていた黒い奔流が。
突然。
止まった。
「……!」
惣一が目を見開く。
空間の消失が停止する。
イレイダ。
刹那。
夢幻。
ネリクマ。
全員の能力の異常反応も。
急速に弱まっていく。
「戻ってきた……?」
アランダがネネを見る。
ネネの右目が閉じる。
その身体が。
崩れ落ちた。
「ネネ!」
アランダが抱き止める。
同時に。
ソウヤが。
大きく息を吸った。
「――っは!」
「ソウヤ!」
イレイダが駆け寄る。
「お前……!」
「……。」
ソウヤは。
空を見る。
「戻った……?」
「当たり前だ! どこ行ってたんだ!」
「説明すると長い」
「後で全部話せ!」
「はい……」
そして。
全員が。
一人の男を見る。
マラン。
黒い力は。
完全に消えていた。
右腕も。
元へ戻っている。
しばらく。
動かない。
「マラン……?」
ネリクマが近づく。
マランの指が。
僅かに動いた。
「……うるさい」
「え?」
「精神世界まで……押しかけてくるな……」
ネリクマの顔が。
一気に明るくなる。
「マラン!」
「抱きつくな……!」
「生きてる!」
「見れば分かる……!」
ネリクマが。
構わず抱きついた。
マランは。
抵抗しようとして。
やめた。
「……ったく」
その視線が。
アランダの腕の中。
眠るネネへ向く。
「……ネネ」
マランは。
ゆっくり立ち上がる。
まだ身体は重い。
それでも。
自分の足で。
歩いた。
ネネの前へ。
しゃがむ。
「馬鹿が。」
右目から流れた大量の流血。
小さな身体。
「無茶しやがって……」
ネネは。
眠ったまま。
少しだけ。
笑ったように見えた。
◇
「終わった……のか?」
ペインが尋ねる。
惣一は周囲を見る。
壊滅によって消えた森。
道路。
大地。
それらは戻らない。
しかし。
能力反応は。
確かに安定している。
「マランについては。」
惣一は答える。
「ひとまずな。」
ソウヤも。
その言葉に気付いた。
「マランについては?」
「ああ。」
惣一は。
遠くを見る。
「世界では。」
「まだ続いている。」
タジから。
通信が入った。
『聞こえるか!』
「今度は聞こえる!」
『マランの反応消えたぞ!どうなった!?』
「助かった!」
『マジか!』
「ああ!」
『よっしゃぁ!』
タジの叫び。
だが。
すぐに。
声が変わった。
『……でも。』
「何だよ」
『新しい能力自律化の報告。』
ソウヤの表情が変わる。
『この一時間で。』
タジが。
静かに告げる。
『四十三件。』
誰も。
すぐには答えられなかった。
マランは救えた。
だが。
これは、一人の男だけの問題ではない。
むしろ、マランを救ったことでようやく彼らはこの異変と戦うための最初の方法を手に入れたに過ぎなかった。
マランが自分の右手を見る。
「……能力を拒絶するな。」
ソウヤが振り返る。
「マラン?」
「あいつを消そうとした時。」
「余計に強くなった。」
マランは。
静かに。
自分の手を握る。
「抑えるだけでは駄目だ。」
「能力を。」
「自分自身の一部として。」
「受け入れる必要がある。」
惣一が。
その言葉を聞いていた。
能力自律化。
その正体は。
まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
能力とは、ただの武器ではない。
そして、ただの異常でもない能力者という存在そのものと。
深く繋がっている。
その事実が。
今。
初めて。
彼らの前へ。
姿を現し始めていた。
――第165話 完




