第164話「沈み込む」
マランを中心に噴き上がった黒い奔流は、炎でも衝撃波でもなかった。
触れたものを壊すのではなく、存在そのものを消し去る。それこそがexcidium(壊滅)という能力の恐ろしさだ。木々も岩も地面も既に失われ、マランの周囲には現実から切り抜かれたような空白が広がっている。その中心で、彼は自分の右腕を左手で押さえ込みながら必死に立っていた。
「だったら――俺たちが止める!」
ソウヤが叫ぶと、マランは苦痛に歪んだ顔を上げた。
「簡単に……言うな……」
「簡単じゃないから全員で来たんだろ!」
「そういう問題じゃない……!今の俺に近づけば、お前たちまで――」
言葉の途中でマランの身体が大きく震えた。
黒い奔流が膨張する。
「来るぞ!」
イレイダの声に全員が身構えた。
惣一はiddhi-vidha-ñāṇa(神足通)によって形成した足場を維持しながら、壊滅の流れを凝視する。攻撃を防ぐという発想そのものが通用する相手ではない。結界を作っても、壁を置いても、その存在自体を消されれば意味がない。
「避けろ。受けるな!」
黒い奔流が横薙ぎに走った。
惣一が足場の位置を瞬時に変化させ、ソウヤたちは一斉に跳ぶ。直後、それまで立っていた見えない足場の一部が消失した。神足通によって現実化された現象さえ、壊滅の対象になる。
「おいおい……名取さんの能力まで消すのかよ!」
「驚いている場合ではない!」
着地した刹那の背後に、無意識のうちに半透明の剣が浮かび上がった。
「……っ!」
刹那が即座に振り返る。
hallucinatio gladius――幻剣。
発動する意思はなかった。それなのに剣は既に形を持ち始めている。
「消えなさい!」
刹那が自ら能力を抑え込むと、幻剣は揺らぎながら消えた。しかし額には薄く汗が滲んでいる。
「やはり近づくほど強くなっています……。マラン様だけを相手にしていればいい状況ではありませんね」
「私の方も同じです」
夢幻の指先には黒い呪力が滲んでいた。彼のexsecratio Carmen――呪詛まで、自ら対象を求めるかのように蠢いている。
イレイダも歯を食いしばりながら右腕を押さえていた。身体の奥からPhysical attackerが勝手に出力を引き上げようとしている。今ここで完全に能力を解放すれば、一時的には動きやすくなる。しかし、それこそが自律化の罠かもしれない。
「能力を使えば近づける。でも使えば使うほど、こっちも呑まれる可能性があるってか」
「厄介にも程があるな」
惣一は冷静に答えながらも、呼吸は先ほどより僅かに荒くなっていた。神足通を維持するだけでも、能力側から押し返されるような奇妙な圧力がある。
その時、ネリクマが突然走り出した。
「おい!」
ソウヤが叫ぶ。
「マラン!」
ネリクマは止まらない。
「来るな!」
マランの怒声。
だがネリクマは、黒い力が吹き荒れる中を真っ直ぐ進んだ。
「さっきからそればっかり!他に言うことないの!?」
「お前……!」
「一人で格好つけて消えようとしてんじゃないよ!」
「格好つけてるわけじゃねぇ!」
「じゃあ助けられろ!」
マランの表情が一瞬固まった。
「……無茶苦茶だな、お前は」
「今さら?」
その言葉に、マランの口元がほんの僅かに緩んだ。
しかし、その瞬間だった。
ネリクマの足元に黒い亀裂が走る。
「ネリクマ!」
ソウヤが飛び出そうとするより早く、惣一が神足通の足場を滑らせるように移動させた。ネリクマの身体が横へ押し出され、その直後、彼女がいた空間が丸ごと消える。
「だから近づくなと言っている!」
珍しく惣一が声を荒らげた。
「ご、ごめん」
「謝るくらいなら最初から――」
「でも、近づかないと助けられない!」
ネリクマの言葉に惣一は口を閉じた。
その通りだった。
離れていては何もできない。
だが近づけば死ぬ。
しかも、時間が経てば経つほどマラン自身の身体まで壊滅に侵食されていく。
ソウヤはマランを見た。右腕の輪郭が先ほどより薄い。時折、身体の一部が映像のノイズのように欠け、そのたびに元へ戻っている。
「マラン……お前、自分にも能力が向いてるんだろ」
「……。」
「答えろよ!」
「……ああ」
マランは諦めたように認めた。
「俺の能力はもう、何を壊すか選んでない。周囲も、お前らも……俺自身も同じだ」
「だったら余計に時間ねぇじゃねぇか」
「だから帰れと言ってるんだ。俺が消えれば終わるかもしれない」
「ふざけんな」
今度はソウヤが即答した。
「『かもしれない』で死のうとしてんじゃねぇよ」
マランが睨む。
「ならどうする。俺を助ける方法があるのか?」
「……。」
「ないだろ」
痛いところだった。
誰も答えられない。
マランを倒すだけなら、方法を考えられるかもしれない。しかし壊滅そのものを止めながら本人を救う方法など、現時点では誰も知らなかった。
そこでソウヤの通信端末に、激しいノイズが走った。
『――ウヤ!』
「タジ!?」
『聞こえるか!?』
「ギリギリ!」
『さっき切れたデータの続きが分かった! 能力因子の共鳴が一定値を越えると――』
再びノイズ。
「肝心なところで切れるなよ!」
『俺のせいじゃねぇ!』
「じゃあ早く言え!」
『能力者同士の因子が、一時的に同調する!』
ソウヤは眉を寄せた。
「同調?」
『お前ら、マランの感情みたいなの感じなかったか!?』
「感じた!」
『それだ!』
タジの声が興奮を帯びる。
『オールドマンの研究じゃ、能力因子は独立したものじゃなく、起源が同じだから特定条件で共鳴する可能性があるって書いてある! 今回の現象で、その条件が異常に成立しやすくなってる!』
惣一が通信へ近づく。
「それがマランを救うことと、どう関係する?」
『分かりません!』
「……。」
『無言やめてくださいよ!でも可能性はある!』
「何だ?」
『今のマランは能力との境界が崩れてる。だったら外側から能力を押さえ込むんじゃなくて、同調を利用して本人の意識に干渉できるかもしれない!』
ソウヤは息を呑んだ。
「精神世界に入るみたいな?」
『そこまで言ってねぇ!でも感覚や意識が共有され始めてるなら、少なくとも外から呼びかけるより直接届く可能性は高い!』
その時。
ネリクマが呟いた。
「……ネネ」
全員が振り返る。
「ネネなら」
ネリクマの表情が変わっていた。
「精神操作ができる」
◇
能研ハウス。
結衣はグランの眠る部屋へ走っていた。
タジから事情を聞いた瞬間、必要になる人物が誰なのか理解したからだ。
扉を開く。
「ネネちゃん!」
ベッドの傍らにいたアランダとネネが同時に振り返った。
「どうしたの?」
アランダが立ち上がる。
「マランが……!」
結衣は一瞬息を整え、それから状況を説明した。
能力自律化。
excidiumの暴走。
マラン自身への侵食。
そして能力因子同士の同調。
話を聞くほど、ネネの顔から血の気が引いていった。
「マラン……死んじゃうの?」
「まだ分からない。でも、このままじゃ危ない」
「……。」
ネネは自分の右目を覆う眼帯へ触れた。
その右目は、マスタークラウンとの戦いで既に酷使されている。能力を使えば激痛が走る。長時間の精神操作など到底できる状態ではない。
アランダがすぐに気付いた。
「駄目よ」
「……。」
「ネネ」
「でも……」
「あなたの目も限界なの」
「でもマランが!」
「分かってる!」
アランダの声が強くなる。
ネネが身体を震わせた。
アランダはすぐに表情を和らげ、少女の肩へ手を置いた。
「ごめんなさい。でも、あなたまで倒れたら意味がないでしょう?」
「……。」
「他の方法を探しましょう」
ネネは俯いた。
その視線の先。
ベッドではグランが眠っている。
自分を孤児院から連れ出した男。
自分の能力を利用した男。
自分を強制的にマスタークラウンへ加入させた男。
そして。
その組織の中で。
いつも自分の精神操作を必要としていた人物がいた。
マラン。
「……嫌」
「ネネ?」
「また待つの嫌」
アランダが目を見開く。
「マラン、いつも私に『抑えろ』って言ってた。でも、ほんとは自分でずっと抑えてた。私がやってたのは、ちょっと手伝ってただけ」
ネネは眼帯を押さえた。
「今度は……ちゃんと助けたい」
「でも!」
「アランダお姉ちゃん!」
その呼び方に。
アランダの言葉が止まった。
「お願い」
幼い少女の目だった。
だが。
その意志だけは揺れていなかった。
「マランのところに連れてって」
◇
東京郊外。
ソウヤたちは、ネネが到着するまでの時間を稼ぐことになった。
問題は、その時間がどれほど残されているのか分からないことだった。
マランの右腕は既に肘付近まで不安定になっている。黒い壊滅の力は断続的に周囲へ放出され、そのたびに惣一が足場を移動させて全員を回避させる。しかし神足通そのものも徐々に惣一の制御を離れ始めていた。
「名取さん、大丈夫ですか?」
「問題ない」
「絶対、問題ある顔してますって」
「なら聞くな」
惣一の額から汗が流れていた。
神足通が訴えかけてくる。
もっと自由に。
もっと遠くへ。
空間という制約など捨てろ。
今まで能力は、自分の意思へ忠実に従うものだった。しかし今は違う。力そのものが「こう使え」と惣一へ逆に要求している。
「随分と……生意気になったものだ」
「惣一様?」
「いや。こちらの話だ」
その直後、神足通によって形成された足場が突然大きく広がった。
「なっ……!」
惣一が即座に制御を戻す。
だが一瞬だけ。
全員が感じた。
惣一の意思ではない発動。
刹那が彼へ近づく。
「惣一様。これ以上は危険です」
「承知している」
「承知している人のお顔ではありません」
「……。」
惣一は少しだけ刹那を見る。
「言うようになったな」
「昔からです」
夢幻が横から小さく笑う。
「それについては刹那さんに同意いたします」
「お前までか」
わずかな会話だった。
しかし。
その一瞬。
マランの能力反応が跳ね上がった。
「全員下がれ!」
黒い光が爆発的に膨張する。
今度はこれまでとは規模が違う。
惣一が神足通で足場を大きく後退させようとした、その時。
能力が。
命令を無視した。
「……何?」
動かない。
いや。
逆だった。
足場が前へ進む。
マランへ向かって。
「名取さん!」
「私ではない!」
神足通が勝手に彼らを中心部へ運び始めた。
同時にイレイダのPhysical attackerが強制的に活性化し、刹那の周囲へ幻剣が現れ、夢幻の身体から呪力が漏れ出す。ネリクマのstrāgēs(破壊)まで呼応するように震え始めた。
「まずい……!」
ソウヤも頭を押さえる。
レイが。
急激に近づいてくる。
『ソウヤ!』
「分かってる!」
『違う!俺じゃない!』
「……え?」
『俺が出ようとしてるんじゃない!』
ソウヤの身体が硬直した。
なら。
何が。
レイを表へ押し出そうとしている?
次の瞬間。
マランのexcidium(壊滅)と。
その場にいる全員の能力が。
完全に共鳴した。
視界が白く染まった。
◇
ソウヤが目を開ける。
「……ここは?」
山ではなかった。
能研ハウスでもない。
何もない。
果てしなく広がる暗い空間。
そして。
遠くに。
一人の少年が立っていた。
「……誰だ?」
少年が振り返る。
ソウヤは息を止めた。
見覚えがある。
今よりずっと幼い。
だが。
その目。
その顔。
「……マラン?」
少年は答えなかった。
ただ。
その背後。
二人の人影が立っていた。
父親。
母親。
そして。
さらにその向こうに。
巨大な黒い何かが蠢いている。
それは、マランが幼い頃から抱え続けてきた力。
ソウヤはようやく理解した。
「これ……マランの精神の中なのか?」
『おそらくな』
「レイ!」
隣を見る。
そこには。
レイがいた。
頭の中の声ではない。
ソウヤと同じ姿。
だが。
目つきも。
立ち方も。
纏う雰囲気も違う。
レイが、自分とは別の存在としてそこに立っている。
「お前……」
「驚いてる場合か」
初めて。
声として。
直接聞いた。
レイは目の前の幼いマランを見る。
「ここが本当にマランの精神世界なら、外じゃできないことがある」
「……マラン本人に会える」
「ああ」
二人は少年へ向かって歩き始めた。
その頃。
現実世界では。
ソウヤの身体が。
その場に崩れ落ちていた。
◇
「ソウヤ!」
イレイダが駆け寄る。
呼吸はある。
心臓も動いている。
だが。
意識がない。
「おい!起きろ!」
反応しない。
惣一も状況を確認する。
「能力因子の同調に意識を持っていかれたか……?」
「そんなことあるのかよ!」
「今までなら、ない」
その言葉の重さを。
全員が理解した。
今までの常識が。
次々と意味を失っている。
そして。
遠くから。
車の音。
全員が振り返る。
一台の車が停止する。
扉が開いた。
「マラン!」
小さな少女が飛び出した。
「ネネ!」
その後ろからアランダ。
そして。
「俺も来たぞぉ!」
「……なんでお前まで来た」
イレイダが顔を引きつらせる。
ペインだった。
「いやぁ、アランダが車乗るから面白そうだなって」
「帰れ!」
「到着して一秒で!?」
「遊びじゃねぇんだぞ!」
「分かってるって」
ペインの表情から。
笑みが消えた。
目の前。
黒い力に包まれたマランを見る。
「……あいつ。」
いつもの軽薄な声ではなかった。
「マジでヤバいやつじゃん」
アランダはネネの肩へ手を置く。
「本当にやるの?」
「うん」
「無理だと思ったらすぐ止めなさい」
「……うん」
ネネが眼帯へ手を掛ける。
右目。
Mental operatore(精神操作)。
マランの能力を。
これまで何度も抑えてきた力。
「待て」
惣一が止めた。
「今、マランの能力因子とソウヤの能力因子が深く同調している。下手に精神へ侵入すれば、お前まで巻き込まれる可能性がある」
ネネは。
少しだけ怖そうな顔をした。
それでも。
眼帯から手を離さなかった。
「だったら。」
小さく息を吸う。
「二人とも連れて帰る。」
アランダが目を伏せる。
ペインも何も言わない。
そして。
ネネは眼帯を外した。
右目が開く。
激痛。
「……っ!」
「ネネ!」
「大丈夫……!」
涙が滲む。
それでも。
マランを見る。
「今度は。」
「私が助けるから。」
Mental operatore(精神操作)――発動。
その瞬間。
ネネの意識も。
暗闇へ落ちた。
◇
マランの精神世界。
ソウヤとレイは。
幼いマランの前へ辿り着こうとしていた。
しかし。
巨大な黒い影が。
二人の前へ立ちはだかる。
形はない。
顔もない。
ただ。
存在するだけで。
世界そのものが崩れていく。
「……これが」
ソウヤが息を呑む。
「excidium……?」
レイが拳を握る。
「違う」
「え?」
「あれは能力そのものじゃない」
レイには。
分かった。
「マランが。」
黒い影を見る。
「自分の能力を恐れ続けた結果だ。」
ソウヤは。
幼いマランを見る。
その少年は。
黒い影へ背を向け。
両親の姿だけを見つめていた。
しかし。
二人の両親の姿が。
ゆっくりと。
消えていく。
「待って……」
初めて。
少年が声を発した。
「行かないで……」
幼い手を伸ばす。
だが。
届かない。
ソウヤは走り出した。
「マラン!」
その時。
別の声が。
精神世界へ響いた。
「マラン!」
ソウヤとレイが振り返る。
暗闇の向こう。
小さな少女。
「……ネネ?」
ネネが立っていた。
右目を押さえながら。
必死に。
それでも。
幼いマランへ向かって歩いてくる。
そして。
黒い影が。
初めて。
三人へ向き直った。
現実では。
マランの身体を覆っていた能力がさらに巨大化していく。
だが。
その中心で。
僅かに。
マランの指が動いた。
まだ。
彼は消えていない。
まだ。
間に合う。
マランという一人の人間を。
excidium(壊滅)という自身を蝕む能力から取り戻すための戦いが始まった。
――第164話 完




