第163話「意志」
東京郊外で観測された異常は、能研ハウスのモニター越しでも一目で分かるほど異様だった。
山間部を映していた衛星画像には、森林の中に巨大な円形の空白が生まれている。爆発なら倒木や焼け跡が残る。地滑りなら土砂が周囲へ押し出される。しかし、そこには何もない。ただ、その範囲に存在していたはずの木々も岩も地面も、最初から存在しなかったかのように消えていた。
誰の仕業なのかなど、考える必要すらなかった。
「……マラン」
ネリクマが呟く。その声からは、普段の掴みどころのない明るさが完全に消えていた。
惣一はすぐに現場へ向かおうとしたものの、先ほどiddhi-vidha-ñāṇa(神足通)が自分の意思より先に発動しかけた感覚が残っている。
しかも異常は彼だけではない。
イレイダの腕にはPhysical attackerの力が断続的に流れ込み、柚季の身体は床から僅かに浮き、小雨は熱を帯びた左目を眼帯の上から押さえていた。結衣の両手からもHealerの光が本人の意思とは関係なく漏れ続けている。
「まず全員、能力を使おうとするな」
惣一の声が室内を制した。
「でもマランが!」
ネリクマが反発すると、惣一は彼女を真っ直ぐ見た。
「分かっている。だからこそだ。今の状態で能力を使えば、それが自律化を加速させる可能性がある。助けに行った我々まで制御を失えば、マランを止めるどころではない」
「じゃあ、どうするの?」
「能力を使わずに向かう」
その答えを聞いて、ソウヤは一瞬だけ呆気に取られた。
「……車?」
「他にあるか」
「いや、名取さんが普通に車で移動するところなんか想像できなくて」
「私を何だと思っている」
「壁抜けて空飛んで瞬間移動する人」
「……否定はしない」
「しないんだ」
緊迫した状況にもかかわらず、結衣が思わず小さく笑った。だが、その笑みも長くは続かない。モニターに新しい観測結果が表示され、消失領域がさらに広がったからだ。
「急いだ方がいい」
タジが険しい顔で告げた。
「最初の消失から今までで、範囲が約三倍になってる。しかも一定速度じゃない。拡大の間隔が短くなってる」
「マラン自身は?」
「確認できない。熱源も映像も全部欠損領域に飲まれてる。ただ、中心付近で能力反応らしき異常だけは続いてる」
惣一は一度だけ画面を見つめると、迷わず指示を出した。
「田島と結衣はここに残れ。グランたちの監視と世界各地の異常観測を続けてもらう。燕も残ってくれ。今の状況でAbility improverが自律発動すれば、他の能力者まで強化する危険がある」
「……分かりました」
燕は悔しそうだったが、反論しなかった。
「私も行く」
ネリクマが言った。
「止めても無駄だから」
惣一は数秒だけ彼女を見た後、頷いた。
「ただしstrāgēs(破壊)は使うな」
「分かってる」
「イレイダ、刹那、夢幻。同行を頼む。ソウヤは――」
「行く!」
聞かれる前に答えた。
「マランには色々聞きたいこともあるし。それに、あいつ昨日『自分で決める』って言ってたばっかりだろ。こんなところで能力に勝手に決められて終わりなんて、さすがに納得できない」
惣一は僅かに目を細めた。
「ああ。私も同感だ」
◇
能研ハウスを出発した車内には、妙な緊張感が漂っていた。
運転席には夢幻。助手席には惣一が座り、後部座席にはソウヤ、イレイダ、刹那、ネリクマが乗っている。能力を使えば圧倒的に速く到着できる者ばかりなのに、道路を走って現場へ向かっているという状況は、ソウヤにとって何とも落ち着かなかった。
「……あの」
「何だ」
助手席の惣一が答える。
「神足通を使った方が絶対早いですよね」
「三分前にも同じ話をしただろう」
「いや、分かってはいるんですけど」
「だったら黙って座っていろ」
「名取さん、意外と車だと厳しいな」
「ソウヤ、少し黙ってろ」
隣のイレイダにまで言われた。
「はい……」
前方を見ながら夢幻が小さく笑う。
「緊張を紛らわせたいのでしょう。悪いことではありませんよ」
「夢幻さん、優しい……」
「到着したら囮に使える程度には元気でいてもらわなければなりませんから」
「前言撤回!」
刹那が呆れたように息を吐く。
「夢幻、今は遊んでいる場合ではありません」
「失礼しました」
そんな会話の間も、ネリクマだけはほとんど口を開かなかった。窓の外を見ながら、膝の上で強く拳を握っている。
ソウヤは横目でそれに気付いた。
「心配?」
「……まあね」
ネリクマは窓から視線を外さなかった。
「マランって昔から、危なくなると人から離れるんだよ。自分が誰かを傷つけるかもしれないって思うと、助けてもらうんじゃなくて、一人になろうとする」
「昨日もそうだったな」
「うん。あいつの能力は強すぎるから、それが正しい時もある。でも……一人じゃどうにもならない時まで同じことするから」
ネリクマはそこで初めてソウヤを見た。
「面倒くさいでしょ?」
「まあ」
「否定してよ」
「いや、俺も似たようなことやるから」
「……そうなの?」
「昔はな」
頭の中でレイが鼻を鳴らした気がした。
『昔だけか?』
(今は違うだろ)
『どうだかな』
(お前どっちの味方だよ)
『お前の味方だから言ってる』
反論できず、ソウヤは黙った。
やがて車窓の景色から建物が消え、山間部へ入っていく。現場へ近づくにつれ、誰からともなく会話がなくなった。
そして数十分後。
夢幻が車を止めた。
「……これ以上は無理ですね」
道路がなかった。
正確には、途中から消えていた。
◇
車を降りたソウヤは、目の前の光景を見て息を呑んだ。
道路は数十メートル先で唐突に途切れている。その向こうにあるはずの山の斜面も森林も消え、巨大な半球状の空白だけが残されていた。爆心地という表現すら似合わない。破壊された痕跡がないからだ。
「これ……全部マランが?」
「おそらくな」
イレイダの声にも、いつもの余裕はない。
惣一は地面へしゃがみ込み、消失領域との境界を観察した。アスファルトは鋭利な刃物で切断したように途切れているが、断面に熱や衝撃の痕跡はない。
「存在そのものを消している」
刹那が息を呑む。
「これほどの規模を、本人の意思とは無関係に……」
「まだ広がってる」
ネリクマが言った。
よく見れば、境界が僅かに動いている。草が一本、根元から消え、その隣の石が音もなく半分だけ失われた。
「下がれ!」
惣一の声に全員が即座に後退した。
数秒後、今まで立っていた場所が消えた。
ソウヤの背筋に冷たい汗が流れる。
「……これ、どうやって近づくんだよ」
誰も答えなかった。
神足通なら空間を越えられるかもしれない。しかし今は、その能力自体が不安定だ。飛行も同じ。力で突破できるような現象でもない。
そこで、ネリクマが目を閉じた。
「マラン!」
大声が山中へ響く。
「いるんでしょ!聞こえてるなら返事して!」
返事はない。
「マラン!」
もう一度。
今度は――。
『……来るな』
微かな声がした。
全員の表情が変わる。
「マラン!?」
『帰れ……!』
声は消失領域の中心から聞こえていた。
まだ意識がある。
ネリクマが一歩前へ出る。
「帰るわけないでしょ!」
『馬鹿野郎どもが……!今の俺は……能力を制御できない……!』
「見れば分かる!」
『だったら――』
「分かってるから来たんだよ!」
ネリクマの声が響いた。
「一人でどうにかできてないじゃん!」
返事が途絶えた。
「マラン。あんた昨日言ったよね。これから何をするか、自分で決めるって」
『……。』
「だったらこんなところで、能力に勝手に決めさせるな!」
ソウヤが僅かに目を見開いた。
昨日。
マラン自身が口にした言葉だった。
――俺が何をするかくらい、俺が決める。
その言葉を、今度はネリクマが返している。
長い沈黙の後、中心部から掠れた声が届いた。
『……うるさい奴だ』
「知ってる」
ネリクマが少しだけ笑った。
『昔から……』
「それも知ってる」
だが、その直後だった。
消失領域全体が大きく揺らいだ。
「伏せろ!」
惣一が叫ぶ。
黒い波のようなものが中心から放射状に広がり、地面が次々と消えていく。全員が後退する中、ネリクマだけが一瞬遅れた。
「ネリクマ!」
ソウヤが腕を掴んで引き寄せる。
二人が転がった直後、ネリクマの足元が消失した。
「……っぶねぇ!」
「ご、ごめん!」
「いや、それはいいけど……!」
ソウヤは自分の右腕を見る。
ネリクマを引いた瞬間。
力が入った。
自分が命令するよりも先に。
人格変化が発動しかけた。
『ソウヤ』
(分かってる)
『近づくほど強くなっている』
(マランの能力に?)
『違う』
レイの声が低くなる。
『この場所そのものにだ』
◇
「名取さん」
ソウヤが今感じたことを伝えると、惣一も同じ感覚があると認めた。
「ここへ来てから、神足通の反応が明らかに強くなっている」
「私もだ」
イレイダが右拳を握る。
「身体強化が勝手に入ろうとしてる。マランに近づくほど強い」
刹那も自らの感覚を確かめるように目を閉じた。
「hallucinatio gladius――幻剣も同様です。発動しようと意識していないのに、剣を形成しようとしている」
「私の呪詛もですね」
夢幻の表情から笑みが消えていた。
つまり、マランだけの問題ではない。
excidium(壊滅)の暴走が、周囲の能力因子まで刺激している。
「能力の自律化した者同士が近づけば、互いに共鳴を強める……?」
ソウヤが呟くと、惣一はすぐに否定しなかった。
「可能性はある。だとすれば、世界各地で同様の現象が増えれば非常に危険だ。一人の暴走が別の能力者を刺激し、その能力者がさらに別の者を刺激する。連鎖すれば、都市単位で収まらない」
「世界規模の能力暴走……」
イレイダが険しい表情になる。
「冗談じゃねぇ」
その時、ソウヤの通信端末が鳴った。
『ソウヤ!聞こえるか!』
「タジ?」
『そっちの能力反応が急上昇してる!マランだけじゃない!お前らも全員だ!』
「やっぱりか!」
『しかも変なことが分かった!オールドマンのデータに――』
激しいノイズ。
「おい、タジ?」
『能力因子の共鳴が一定値を越えた場合――』
通信が乱れる。
『――能力者同士の――境界が――』
「何だって!?」
『聞こえ――』
ブツッ。
通信が切れた。
「クソ!」
ソウヤが端末を見る。
その直後。
頭の奥で。
今まで経験したことのない感覚が走った。
「……ッ!」
レイではない。
声。
誰かの声。
苦痛。
怒り。
恐怖。
壊したくない。
誰も傷つけたくない。
でも。
止まらない。
「……マラン?」
ソウヤが顔を上げた。
ネリクマも同じように胸を押さえていた。
「今……聞こえた」
「お前も?」
「うん」
惣一たちにも変化が現れていた。
能力因子の共鳴。
それは単純に能力出力を高めるだけではなかった。
能力を介して。
能力者同士の感覚まで繋ぎ始めている。
◇
消失領域の中心。
マランは一人、膝をついていた。
周囲には何もない。地面さえ部分的に失われ、自分が立っている僅かな足場だけが残されている。
全身から溢れるexcidium(壊滅)を、必死に押さえ込む。
「……帰れって……言っただろ」
だが。
聞こえる。
ネリクマ。
ソウヤ。
惣一。
イレイダ。
自分を助けようとしている者たちの感覚が、能力を通じて流れ込んでくる。
同時に。
自分の中のものも。
彼らへ流れている。
両親を失った日。
能力者への憎悪。
復讐。
グラン。
ネネ。
マスタークラウン。
そしてネリクマ。
誰にも見せるつもりのなかった感情まで。
「勝手に……入ってくるな……」
マランは苦しそうに笑った。
その時。
壊滅の力が再び脈打った。
だが、今度は外へ向かわなかった。
「……?」
力が。
マラン自身へ向いた。
自分の腕。
身体。
そして。
意識へ。
「まさか……」
マランは理解した。
能力が世界を壊そうとしているのではない。
能力者と能力の境界が崩れ始めている。
excidium(壊滅)は、自分自身さえ壊滅の対象として認識し始めている。
「……ふざけるな」
震える腕で胸元を掴む。
「俺まで壊すつもりか……?」
返事はない。
それでも能力は、マランの身体を内側から侵食し始める。
◇
遠方からその様子を見ていたデウスは、初めて僅かに表情を険しくした。
「境界崩壊まで進んだか」
隣のアメスが問いかける。
「能力者自身と能力の?」
「ああ。人間が能力を所有しているという認識そのものが崩れ始めている」
「このままマランが完全に呑まれたら?」
デウスは少しの間、答えなかった。
「マランという人間とexcidiumという能力を分けるものがなくなる。そうなれば、彼は能力を『使う者』ではなくなる」
「では何に?」
「壊滅そのものだ」
アメスの表情から余裕が消えた。
「それでも傍観しますか?」
「ああ」
デウスは静かに答えた。
「今はまだ。」
その視線の先には、マランへ近づこうとする能研と名取家がいる。
「彼らには、まだ選択肢が残されている」
◇
そして異空間では、覇者の集いも同じ戦場を見つめていた。
ゼゥテルは玉座のような席に腰掛け、足を組んだまま何も命じない。シェフィル、ネフィ、マオン、マコン、ゲヴォン、ペルムも同様だった。彼らは依然として傍観者であり、この戦いへ介入する意思を見せてはいない。
「マランが自分自身を壊し始めている」
ネフィが静かに言った。
「止めなければ消えるわ」
「それを決めるのは我々ではない」
ゼゥテルは視線を動かさず答えた。
「彼自身と、そこへ向かった者たちだ」
マオンが腕を組む。
「もし止められなかったら?」
「その時は、その結果を見る」
冷たいようにも聞こえる答えだった。しかし、それこそが覇者の集いの立場だった。今の彼らは世界を救う者でも滅ぼす者でもない。ただ、能力者たちがどこへ辿り着くのかを見定めている。
ゼゥテルの視線が、ソウヤたちへ向く。
「見せてもらおう。能力に支配され始めた者を、人間の意志だけで引き戻せるのかを」
◇
東京郊外では、状況がさらに悪化していた。
消失領域の拡大が止まった代わりに、中心部から異常な能力反応が膨れ上がっている。タジとの通信も途絶えたままだ。惣一は一度目を閉じ、自分の中で暴れようとする神足通を抑えながら考えていた。
能力を使えば自律化を加速させる可能性がある。しかし使わなければ、マランへ近づけない。しかも時間をかければ、マラン自身が壊滅によって消える。
「……選んでいる時間はないな」
「惣一様?」
刹那が見る。
惣一は静かに右手を上げた。
「神足通を使う」
「でも!」
ソウヤが声を上げる。
「分かっている。危険は承知だ」
「勝手に発動するかもしれないんだろ!?」
「ああ。だから完全には使わない」
「どういうこと?」
「私は空間を越えるのではなく、ここにいる全員が消失領域の上を移動できる足場を作る」
ソウヤは一瞬理解できなかった。
だが惣一の能力は、単なる瞬間移動ではない。飛行、水面歩行、壁歩き、すり抜け。望む姿で行き来し、それを現実化する。
「そんな使い方まで……」
「神足通を移動だけの能力だと思うな」
惣一は静かに集中する。
「ただし、私の制御が外れた場合は即座に離れろ。夢幻、刹那」
「承知しました」
「惣一様の意識に異常が出た場合、私たちが止めます」
「頼む」
ネリクマが前へ出る。
「私も行く」
「当然だ」
「止めないんだ?」
「止めても行くだろう」
「分かってきたじゃん」
ソウヤも並ぶ。
「俺も」
イレイダが刀を肩へ担ぐ。
「ここまで来て置いてくなよ」
惣一は全員を見ると、一度だけ頷いた。
そして――iddhi-vidha-ñāṇa(神足通)が発動する。
力は、すぐに惣一の意思を追い越そうとした。もっと遠くへ行ける。空間を飛び越えろ。壁も距離も意味などない――能力そのものが、そう訴えかけてくるようだった。
「……黙っていろ」
惣一が低く呟く。
額に汗が浮かぶ。
「お前を使うのは、私だ」
その言葉とともに制御を取り戻し、消失領域の上へ見えない足場が形成された。
「行くぞ」
ソウヤたちは走り出した。
足元には何もない。それでも惣一の神足通によって作られた道だけは確かに存在し、彼らをマランのいる中心部へ導いていく。進むほど能力因子の共鳴は強くなり、ソウヤの中ではレイの存在がこれまで以上に鮮明になっていった。
イレイダの身体にも勝手に力が流れ込み、刹那の周囲には幻剣の輪郭が浮かび、夢幻の呪詛も漏れ出そうとしている。それでも全員が能力を押さえ込みながら走り続けた。
やがて。
何もない空白の中心に。
一人の男が見えた。
「マラン!」
ネリクマが叫ぶ。
マランが顔を上げた。
全身は黒い力に包まれ、右腕の一部がまるで映像の欠損のように揺らいでいる。自分自身が消え始めているのだ。
「何故……来た」
掠れた声だった。
「助けに来た!」
「来るなと言っただろ……!」
「聞くわけないじゃん!」
「馬鹿な奴だ……。」
「知ってる!」
ネリクマは叫び返した。
その声を聞いたマランは、一瞬だけ昔のような表情を見せた。
だが次の瞬間、黒い力が一気に膨張した。
「来るぞ!」
イレイダが叫ぶ。
マランが必死に腕を押さえる。
「逃げろ……!」
「マラン!」
「今度は……!」
黒い力が周囲を覆う。
「俺自身では……止められない……!」
ソウヤは逃げなかった。
ネリクマも。
惣一も。
誰一人として背を向けなかった。
能力者と能力の境界が崩れ、マランという人間そのものがexcidium(壊滅)へ呑み込まれようとしている。それでも彼の意識はまだ残っている。ならば、完全に消える前に引き戻すしかない。
ソウヤは拳を握った。
「だったら――俺たちが止める!」
マランの瞳が大きく見開かれる。
その瞬間。
能力自体が完全にマランの意思を振り切った。
黒い奔流が天へ立ち昇り、周囲の空間そのものが軋み始める。しかしその中心で、マランはまだ歯を食いしばり、自分の身体を内側から消そうとする力へ抗っていた。
これは、マランを倒すための戦いではない。
世界を壊滅へと追い込むほどの力を持つ男を、彼自身の能力から取り戻すための戦いだった。
――第163話 完




