第62話:泥のように
『何用だ』
闇の奥に潜む大蛇が俺に問う。
俺は声を振り絞って言った。
「ヘビに噛まれた子供を助けたいのです。この近くで何があったのか、ご存じではありませんか?」
『ほぅ……』
見定めるように、視線が注がれる。
『我は――ヨルムンガンド』
大蛇が、低く名乗った。
「ヨルムンガンド……」
リュックの中から、ヒーが小さく呟いた。
『その声は――ヒュギエイア様?』
大蛇の視線が、俺の背中のリュックへ向く。
「あら、久しいわね」
『これは、これは。まさかこんな場所でお会いするとは』
(え、知り合い?)
俺が驚いていると、ヨルムンガンドは俺へ視線を戻した。
『ヒュギエイア様、申し訳ないが――しばし下がっていてもらえるだろうか。これは我と人間の話だ』
「そう、分かったわ」
そう言うと、ヒーはあっさりと口をつぐんだ。
(え、ヒー……)
あまりに素直な様子に、内心少し動揺してしまう。そこまで簡単に引くとは思っていなかった。
しかし、気持ちを持ち直した。
「ヨルムンガンド様、まずは突然の無礼をお許しください。どうしても、その子を助けたいのです。それに、この近くで倒れていたようなのです」
『子供? ああ、先ほどここに来た人間か』
(やはりそうか……)
「この場所に来ていたのですね」
『そうだ。迷い込んだ子供が、我らに棒を振り回して襲いかかってきたのだ。だから身を守るために噛んだ。それだけのことだ』
(そうか……毒のことより先に、誤解を解かなきゃいけない)
「そうだったのですね……過ちがあったのなら、お許しください。その子は今、気を失っていて――」
そのとき、横の茂みから小さなオレンジ色の何かが飛び出し、俺の左腕に噛みついた。
小さな痛みが走る。ヘビだった。
「う……」
思わず振りほどきたい衝動を、ぐっと堪えた。
(これで、いい……)
俺はヘビに噛みつかれたまま、続けた。
「その子供も、このヘビと同じなんです。きっと、知らない怖さから攻撃しちゃったんです。幼くて、不安で、怖くて――自分を守ろうとして」
ヨルムンガンドは、黙って俺を見つめていた。
「だから、その子を許してもらえませんか。あなたたちを襲うようなことは、二度とさせません。俺が必ず、村の人たちに説明します。だから――あの子の命を、どうか助けてください」
左腕の小さな痛みは、まだ続いている。
(このヘビにも毒があるなら、俺もただでは済まない。でもあの子はまだ息があった。大人の俺なら、まだ持つはず。それに、俺にはヒーがいる)
きっと、何とかなるはず。
そんな思いを抱き、俺は目の前の大蛇の返事を待った。
『命を奪う、だと? 何のことを言っている』
「へ?」
「大丈夫よ、ヤマダ」
ヒーが、すぐに声をかけてくる。
『こら、コハク。いつまで噛んでいるのだ』
『はーい』
そう言うと、小さなヘビは噛むのをやめて、茂みの奥へと隠れていった。
「話してもいいかしら?」
ヒーがヨルムンガンドへ問いかける。
『構わぬ』
「ヨルムンガンドには、人を殺す毒はないわ。そのコハクという子にもね」
「え?」
「あるのは――催眠作用よ。それも、遅効性の」
「え……」
理解が追いつかない。
『その通りだ。子供が木の枝を振り回して危険を感じたゆえ、コハクが噛んで眠らせた。そして我が入口まで運んだのだ。ここにいられても困るのでな。いずれ人間どもに見つけてもらうためにな』
「え……」
(つまり、あの子は――ただ寝ているだけ?)
「ヨルムンガンドの言う通りよ。彼らは神聖な存在。無益な殺生も、人を食べることもしないわ」
『分かったのなら、帰るのだな』
「あの、俺のこの傷も、問題ないってことですよね?」
『ああ、命に影響を与えるようなことはない。コハクがすまなかった』
「それを聞いて安心しました。ずっと噛まれてたんで、少し心配になりましたよ。とんでもないことになるんじゃないかって」
『あ、ああ。お主も、気をつけてな』
(ん?)
「それでは失礼いたしました。村の人たちにも、きちんとお伝えしますので」
ヨルムンガンドの反応が少し気になったが、俺は来た道を引き返すことにした。
入口に戻ると、おじさんが慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫か! あんた、噛まれてるじゃないか!」
俺の左腕を見て、声を上げる。
「平気です。あの子も、俺の傷も、毒じゃなかったんです」
「へ?」
おじさんは、おそらく少し前の俺と同じ顔をしていた。
◆◇◆
村に戻ると、俺は事情を話した。
ヘビたちは決して人を襲わないこと。迷い込んでパニックになった男の子を、眠らせて入口まで運んでくれたこと。そして――あの森の奥は、どうかそっとしておいてあげてほしいということを。
それを聞いて戸惑う村人たち。
「その若造の言う通りだ」
後ろから声がした。
「村長!」
白いひげを蓄えた老人と、その息子らしき男性が、こちらへ歩いてくるところだった。
「戻っていらっしゃったのですね!」
村人が声をかける。
「ああ、王都はどうも落ち着かんのでな」
「お父さん、式典が終わったらすぐに村に帰りたいって言うので帰ってきました」
息子さんが笑いながら補足をしてくれた。
「それはそうと、森のことについて、みんなにはちゃんと話していなかったな」
そう言うと、村長は静かに語り始めた。
「この村がここに根を張ってから、もう何百年になるか。森の奥には、ヨルムンガンド様がおられるのだ――」
村長は、ヨルムンガンドが凶暴なモンスターをこの村へ近づかぬよう遠ざけていたことや、村の者たちも彼らの生活にこれまで立ち入らなかったことを説明してくれた。
「ワシも若い頃、一度だけヨルムンガンド様にお会いしたことがある。今思えば、恐ろしいというより、静かな方だったな」
村長は、懐かしむように目を細めた。
「あの方は、恐ろしい姿をしておられるが……決して無闇に人を傷つけたりはなさらん。こちらから仇なそうとせぬ限り、何も起こりはせんのだ。よしんば、心無い者が刃を向けたとしても……あの方はただ、眠らせるだけで済ませてくださった」
村長は、遠くを見るような目をした。
「近頃はこの村も、余所から越してきた者が増えてな。昔からここに住んでいるのは、もうワシらくらいのものだ。あの森の奥に、好き好んで立ち入る者もおらぬから、皆にきちんと話す機会もなかった。すまなかったな」
(そうだったんだな……)
「おぬしには迷惑をかけた。お詫びに、この村での宿代と食事代は、すべてワシが持とう。どうかゆっくりしていってくれ」
「いえ、そんな――」
そう言おうとしたとき、めまいがしてよろける。
「大丈夫か?」
「なんとか……それでは、お言葉に甘えて、しばらく宿屋に泊まらせてもらいます」
「おお、分かった。伝えておこう。気をつけてな」
落ちそうになる瞼を必死に持ち上げながら、俺は宿屋へと駆け出した。
(やばい、眠気が――)
ひとまず部屋に駆け込む。
リュックを机の上に置く。
(待てよ。俺はどうなるんだ? 催眠作用って、どれくらいの効果なんだ。ヒーたちも、お腹は空くし喉も渇くよな……)
頭だけでなく、視界もぼやけていく。
廊下では、宿屋の女性が掃除をしていた。
「あの、すみません。お水とか、パンとかって、ありますか?」
「あるよ、ちょっと待ってな」
そう言って、彼女はいくつか手渡してくれる。俺は用意していた銀貨を一枚取り出し、渡した。
「お釣りは、要りません。あと、しばらく部屋で寝ていますので、起こさなくても大丈夫です」
「そうかい。あんた、顔色悪いけど、平気かい?」
「はい……問題ないです」
そう言って、部屋に駆け込み、扉を閉める。
「ヒー、見てたと思うけど……しばらく寝る。水とパンは、これだから……」
「分かったわ。後のことは――」
声が、遠ざかっていく。
「――お疲れ様、ヤマダ」
その声を聞いて、俺はベッドに突っ伏し、そのまま眠りに落ちた。




