第99話】書き残すもの
卒業式まで、あと十日。
廊下の壁には桜の飾りが貼られ、制服のポケットには進路決定通知が折り畳まれて差し込まれている。
教室の空気も、いつの間にか“さよならの匂い”が混じり始めていた。
放課後の書道室。
静かなその空間に、あすか、志津香、真理子の三人が向かい合って座っていた。
「……なあ、あっという間やったな」
あすかが、半紙を折りながらぽつりと漏らす。
「うん。入部して、最初は筆の持ち方すら覚束なかったのに」
真理子が微笑む。
「何回、ぶつかって、悩んで、でも一緒に書いてきたか……」
志津香が、墨壺の縁を指でなぞる。
その指先には、三年間分の墨が染み込んでいるように見えた。
「うちら、何を残せるんやろ」
あすかがぽつりと言った。
「技術は、教えきれたわけじゃない。言葉も、まだ足りない気がする」
「それでも」
真理子が小さく頷いた。
「私たちの“線”は、書道室に残るよ。
一緒に悩んだこと、戦ったこと、書いた跡……それは、ちゃんと染みついてる」
志津香が、棚から三枚の色紙を取り出す。
「書こう。後輩たちに、残す一枚。
私たちが“この部にいた”という証を」
墨をすり、筆を選び、紙の上に向かう。
あすかが書いたのは、「真」。
勢いに任せることなく、最後まで力を込めて書いた。
>「まっすぐ書いて、まっすぐ届く。それが、うちの信じる書。」
志津香が選んだのは、「間」。
空白と余白を丁寧に計算し、静けさの中に意志を込めた。
>「空間にこそ、言葉は生まれる。書も、人間関係も。」
真理子が筆に込めたのは、**「続」**の一文字。
小さくても、確かに途切れない線で。
>「迷っても、立ち止まっても、書いている限り終わらない。」
三人の色紙は、机の上に並べられた。
その字のひとつひとつが、“この三年間”を表していた。
それは上手い字でも、完璧なバランスでもなかったかもしれない。
でも、それぞれの“歩み”が、そのまま筆に滲んでいた。
窓の外には、まだ咲かぬ桜の枝が揺れている。
誰かの筆が、これからまたこの書道室で震え出すだろう。
そこには、彼女たちの「書き残したもの」が、確かに息づいている。
「これで、いい」
あすかが言った。
「これが、うちらの“卒業制作”や」
誰もが、黙ってうなずいた。
その夜、書道室の棚に、三枚の色紙がそっと飾られた。
静かな風がカーテンを揺らし、墨の匂いがまたひとつ、記憶として積み重なっていった。




