【第97話】「私たちも、先輩になる」
三年生が教室へ戻った後の、午後の書道室。
墨の香りがほのかに残る中、山根が雑巾を手に、机を拭いていた。
「ねえ……わたしたちさ」
その静かな言葉に、筆を片づけていた伊藤と結子が顔を上げた。
「もうすぐ、“先輩”なんだよね」
山根は、自分の言葉を噛みしめるように言った。
結子が、少し黙ってからうなずいた。
「うん。春になったら、新入生が入ってくる。
この書道室に、“私たちの背中”を見にくる子が」
「想像つかないな……自分が、教える側になるなんて」
伊藤が呟く。
「でも、教えてもらってきたもんね」
山根が言う。
「志津香先輩の止めや、真理子先輩の寄り添い方。あすか先輩の“気合い”」
三人の顔に、それぞれの先輩の姿が浮かぶ。
「志津香先輩、最初ほんと怖かった」
結子が笑う。
「でも、質問したら、ちゃんと考えてくれたよね。
“その字は、あなたの心に似てる”って言われた時は、ちょっと泣きそうになった」
「うちはあすか先輩に、“その線、腹減ってる!”って言われたの忘れられへん」
伊藤が笑いながら言う。
「“書は腹で書け”って、意味わからんけど、なんか通じたよな」
結子も笑った。
しばらくして、山根が筆を取り、残っていた半紙に何かを書いた。
「継」
その一文字に、二人は思わず息をのんだ。
「引き継ぐんだ、って……思った。私たちも、そういう番に来てる」
結子が黙ってうなずいた。
伊藤も、ゆっくりと筆を取る。
彼女たちはまだ未熟かもしれない。
けれど、“先輩になる”という自覚が、言葉ではなく筆を通じて、少しずつ形になり始めていた。
机の隅に置かれた色紙箱。
そこには、過去の先輩たちの文字が静かに並んでいる。
自分たちも、いずれはそこに一枚、書く日が来る。
「ねえ、春になったら……新歓の練習、始めよう」
結子の言葉に、山根も伊藤もうなずいた。
「“書けること”じゃなくて、“伝えられること”を、探してみよう」
山根が言った。
窓の外では、まだ少し冷たい風が吹いていた。
でも、その風の先にある春を、三人は確かに見つめていた。
“受け継ぐ”とは、“なにかを変えずに残すこと”ではない。
変わっていく責任を、引き受けること。
そしてその始まりは、きっと今この瞬間。
「私たちも、先輩になる」
結子の言葉に、静かに灯る決意があった。




