【第96話】卒業生からの色紙
三月も半ばに差しかかったある昼休み。
書道室の扉がノックされ、職員室の顧問が、大きな封筒を持って入ってきた。
「ちょっと、これ。去年の卒業生たちから預かってたやつ。そろそろ渡しておこうかと思って」
そう言って顧問が机に置いたのは、何枚もの色紙だった。
丁寧に薄紙で包まれたそれらには、それぞれ、ひと文字と短い言葉、そして署名が記されていた。
「色紙? 卒業生の?」
あすかが目を丸くする。
「去年の三年生が、『私たちも何か残したい』って言ってね。
“次の代へ筆を渡すように”って、全員分書いていったの。
タイミングを見て渡してって頼まれてたけど……もう、いい頃合いかなと思って」
顧問はそれだけ言って、静かに扉の外へ出ていった。
部屋の空気が変わった。
真理子が一番上の色紙をそっと開く。
「拓」——“切り拓く”の拓
その下には、小さな筆文字でこう記されていた。
>「狭い道でも、自分で線を引けば、それが道になるよ。」
「……これ、先代の部長のだ」
志津香が小さく言った。
あすかが、次の色紙をめくる。
「淡」
>「強くなくてもいい。ずっと書き続けることのほうが難しいから。」
その言葉に、誰かが息を呑む音がした。
後輩たちも、少しずつ色紙を手に取っていく。
「響」
「縁」
「息」
「結」
どれも、誰かが“その瞬間”に選び取った、たった一文字。
でもその一文字には、想像もできないくらいの思いや時間が込められていた。
「……これ、ほんまに残るんやな」
あすかが、ぽつりと呟いた。
「字って、誰が書いたか、何を思って書いたか、ちゃんと残る」
真理子が静かに言う。
「“継承”って、こういうことなんだね」
志津香の声には、少し震えがあった。
伊藤が、ふと口を開いた。
「私たちも……来年、書けるかな。
こんなふうに、“残す”って、簡単じゃないけど……憧れます」
誰も、軽々しく答えることはできなかった。
けれど、みんなの中に“いつか自分も”という火が灯ったのは、間違いなかった。
書道室の棚の一角に、その日から「色紙箱」が置かれることになった。
先輩たちの文字。
言葉。
思い。
それは、もう声を持たないけれど、筆跡という形で、確かに“生きていた”。
春は、すぐそこまで来ていた。
書道室の空気が、少しだけ新しくなる準備を始めていた。




