【第95話】紙の山と笑い声
年度末の大掃除は終わったはずなのに、書道室の一角には「整理中」の札が貼られたダンボール箱が残っていた。
その中身は、処分予定の練習紙の束。
書いて、失敗して、捨てきれず取ってあったもの。
誰のものでもあり、誰のものでもなかった。
「あれさ、ちょっと見る? 捨てる前に」
真理子が、軽い調子で言った。
「ええけど、たぶん地獄の山やで」
あすかが笑う。
「その地獄、掘ってみましょう」
志津香も冗談めかして言い、三人と後輩たちで床に輪になって座り、紙の山を広げていった。
最初に出てきたのは、力任せに書かれた「あ」。
紙が破れかけていて、墨が飛び散っていた。
「これ、絶対うちや」
あすかが即答する。
「なんで“あ”でこんなに怒ってんの」
真理子が笑いながらツッコむと、後輩たちも吹き出した。
次に出てきたのは、繊細すぎて線が見えないほど淡く書かれた「空」。
「これ……私ですね。多分、塾に行き始めたころ」
志津香が照れくさそうに言った。
「息止めながら書いてたもんなあ、その時期」
あすかが笑うと、志津香も少しだけ肩を揺らして笑った。
「この“夢”、字がすごく小さい……誰だろう」
伊藤がそう言って見せた紙には、端のほうに小さく、かすれた「夢」の字。
真理子が、思い出したように手を伸ばした。
「……一年生の秋。新人戦のあと。私、筆を持つのが怖かったころ」
誰も言葉を挟まなかった。
真理子がそっとその紙を手元に置く。
「でも、捨てないでよかった。これ、今の私とつながってる」
紙の束は、笑いながら、時に黙って、一枚ずつ手渡されていく。
「この“破”って字、逆さやで?」
「筆に墨つけすぎてるし!」
「これ、練習というより事件では?」
どんなに笑っても、その一枚一枚の紙には、誰かの“本気”が残っていた。
失敗だった。恥ずかしかった。書いた本人さえ忘れていた。
でもそのどれもが、確かに「書いた日」があった。
「なあ」
あすかがぽつりと言う。
「うちさ、昔は“上手く書く”ことばっかり考えてたんや。勝ちたくて、認められたくて。
でも今は、“残るかどうか”の方が大事って思うねん」
「“書いた”って事実だけが、ずっとそこにあるもんね」
真理子が優しく続けた。
「……そして、笑えるようになる日が来る」
志津香が静かに言った。
紙の山は、少しずつ片づいていく。
残すもの、捨てるもの、もう一度見ておきたいもの。
最後に、誰かが無地の一枚を広げ、そこに筆でこう書いた。
「残す理由、忘れないように」
誰が書いたか、誰も名乗らなかった。
けれどその言葉だけは、誰の胸にもまっすぐ届いた。
書道室に、乾いた笑い声が静かに響いた。
あたたかい午後の光が、紙の山をやさしく照らしていた。




