【第86話】真理子、書を続けるか悩む
寒さが本格的になってきた一月下旬。
窓の外は灰色の雲に覆われていた。
書道室の机に並ぶ紙の山、その隅に、小さく丸めたノートが一冊置かれていた。
それは、山下真理子が一年生の春から書き続けてきた、練習記録のノートだった。
「〇月〇日 一日一枚、必ず書く。墨が薄い。線が甘い。筆圧が抜ける。やり直し」
「〇月△日 志津香先輩の“心”と“技”の両立に触れて、自分との差に落ち込む」
「〇月×日 あすか先輩の線に圧倒される。私の書は、ただの模倣かもしれない」
ページをめくるたびに、苦しみと格闘と、小さな希望が交互に記されていた。
だが、最後の数ページは――空白のままだった。
真理子はそのノートを見つめながら、ため息をついた。
(続けていいのかな、私が)
上手いわけでもない。
賞も、めったに取れない。
志津香やあすかみたいな“芯の強さ”も、“感情の爆発”もない。
筆を握っていても、自分が“書道部の中心”になることなんて、想像できない。
(進学先、決めなきゃいけないのに……)
書道で進学?
でも、将来の役に立つのか?
そもそも、私には“才能”なんてあるのか?
頭の中に「辞める」という選択肢が、ふとよぎる。
それを追い払いたいのに、何度も、戻ってくる。
そのとき、書道室の扉が開いた。
「あ、真理子。まだいたんや」
あすかだった。
顔には笑み。けれど、何か察したように、そのまま隣に腰を下ろした。
「書いてへんの?」
「……うん。今日は、なんか、書けない」
「そっか。そういう日、あるよな」
そう言いながら、あすかは真理子のノートを手に取った。
「わあ、びっしり書いとるなぁ……ここまで続けてたん?」
「……三日坊主が嫌だったから。でも、それだけ」
「いや、それだけやないやろ」
あすかは、ノートの空白のページをそっとめくり、ふと呟いた。
「ここ、何も書いてへんけど……真理子が迷ってるって、うち、わかる気するわ」
「……どうして?」
「うちも迷ってるから。“好き”って、何やろって思うねん。
毎日書いてるのに、たまに“やめてもいいかも”って思ってまうこと、あるで」
真理子は、驚いたようにあすかの顔を見た。
「でもさ、“やめようか”って考えるときって、ほんまは“続けたい”って思ってるときやと思う。
やめる理由探してんのに、どっかで“踏みとどまってる自分”がおるから、迷うんやろ?」
その言葉が、真理子の胸にじんと響いた。
(私も、本当は……続けたいと思ってる)
声には出せなかった。けれど、心が少しずつ解凍されていく感覚があった。
「書いても書いても、自分の字が好きになれないときがある。
でも、それでも書いてる。……それだけで、続ける理由にならんかな」
あすかの言葉に、真理子は静かにうなずいた。
「……ありがとう。もう一枚だけ、書いてみる」
そう言って、真理子は墨をすり、筆を持った。
その筆は、まだ揺れていたけれど――
その線には、迷いごと“今の自分”を映し出す、やわらかな強さが宿っていた。




