【第84話】志津香、心を開く
年末の午後、校舎の空気はひんやりと澄んでいた。
生徒の姿もまばらになった冬休み前、書道室には静かな墨の香りが立ちこめている。
志津香は一人、机に向かって筆を取っていた。
誰に見せるでもない、ただの練習。
いや、練習というより――“確認”だった。
文化祭での《繋》。
あれを越えたいと思った。けれど、それは簡単じゃなかった。
「……力、入りすぎてる」
小さく独り言をこぼし、筆を置く。
もう一度、紙を換える。
そのとき、書道室の扉が控えめに開いた。
「……志津香先輩、いらっしゃいますか?」
声の主は、1年の南野結子。
大人しく、でも芯の強さを感じさせる子だった。
「どうしたの?」
志津香は筆を洗いながら、静かに聞く。
「年内にもう一枚、書いておきたくて……でも、なんか、書けなくなってしまって」
「……見てもらっても、いいですか?」
そう言って差し出されたのは、練習紙の束。
一枚一枚に「静」「翔」「透」などの文字が、何度も何度も繰り返されていた。
整っている。けれど、どこか、呼吸が止まっている。
志津香は、しばらく沈黙したまま一枚を手に取った。
筆跡をなぞるように目で追い、ふっと小さく笑った。
「……私に、似てるかもしれない」
結子が驚いたように目を上げた。
「私も、ずっと“正しい書き方”ばかりを求めていたから。
とにかく整っていないと不安だったし、
“うまい”と思われたくて、迷いを見せないようにしてた」
志津香の声は、どこか懐かしげだった。
「でもね、線って、不安とか迷いがあると、自然にそれが出る。
逆に、感情を消そうとすればするほど、“無”になってしまう。
……それが、いちばん、誰にも届かない書になるの」
結子は、小さくうなずいた。
その目は、真剣そのものだった。
「じゃあ……どうすれば、いいんでしょうか」
志津香はしばらく考えて、机の端にあった古い紙を一枚取り出した。
そこには、昔の自分が書いた失敗作が残っていた。
「これ、私が一年のときに書いたやつ」
「……正直、ボロボロ。でも、これだけは捨てられなかった」
「なぜ……ですか?」
「たぶん、心だけは、ちゃんと映ってたから」
そう言って志津香は、小さく笑った。
それは、南野結子に向けた笑顔であり――かつての自分自身に向けたものでもあった。
「うまくなくていい。線が震えてもいい。
“今の自分”を、ぜんぶ線に映してみて」
「評価されるかどうかより、まず、“自分に嘘がないこと”のほうが、大事だよ」
その言葉に、結子は目を見開いて、深くうなずいた。
「……書いてみます。いまの、私のままで」
二人は、それぞれの机に戻り、もう一度、墨をすった。
部屋には静寂があった。
けれどその中には、温かいものが流れていた。
志津香はそっと、自分の筆先を見つめる。
「誰かに向けて、初めて、心を開いたかもしれない」
そう思った瞬間、線がふと、やわらかくなった気がした。




