【第82話】顧問の「いい書だ」
文化祭の片付けが終わり、夕暮れの書道室に三人の影が落ちていた。
《繋》は、すでに壁から外され、丸めて紐で結ばれていた。
展示が終わったあとの余韻と寂しさ。
でも、悔いはなかった。
「なあ、結局うちらの《繋》って、良かったんかな」
あすかがぽつりと言った。
「いろんな人が見てくれた。でも、すごく刺さった、って言われたわけじゃない」
真理子が控えめに言う。
「“正しい”とも“間違い”とも言われなかった……中途半端だったのかな」
志津香の言葉に、三人は少しだけ黙り込んだ。
そのとき、書道室の引き戸が音を立てて開いた。
「……お前たち、まだいたか」
顧問の神谷先生だった。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めたその姿は、授業のときよりも少しだけ柔らかい。
先生は無言で《繋》を包んだ紙の束に近づき、それをほどき始めた。
「ちょ、先生!? それ、もう――」
あすかが言いかけたが、先生は構わず、ゆっくりと広げていった。
大判の和紙が床に広がる。
三人の手によって生まれた“繋”の文字が、静かに姿を現す。
神谷先生は、しばらく何も言わず、じっと見ていた。
やがて、その口が動く。
「――いい書だ」
その言葉に、三人の目が揃って先生に向いた。
「え……それ、本気で……?」
先生は軽く頷いた。
「お前たちは、これまで“上手さ”を求めてきた。
けれど今回は、技術だけでなく、“想い”を混ぜてきた。
線の粗さも、力の抜けもある。だがそれが、“お前たちの書”になっている」
志津香が思わず聞いた。
「でも、ある人には“責任がない”って言われました。
誰の線か分からない、まとまりすぎている、って……」
「その人の目も、正しい。書に正解はない。
だが、評価されることだけが“いい書”の条件じゃない」
先生は、書の前にしゃがみこむようにして、そっと指を置いた。
「これは、お前たち三人が、“一緒に書こう”として生まれた線だ。
それは、一人では決して書けない書だ。
“自分の線”を通すだけでは生まれない――お前たちの、関係が書かれている」
三人は、その言葉を静かに胸に刻んでいった。
「これが“いい書”だと、俺は思う」
「たとえ誰が褒めなくても。これを書いた“お前たち”が、前に進んでる限り――いい書だ」
教室の窓の外には、夕焼けが広がっていた。
赤く染まった光が、《繋》の文字の曲線を、やわらかく照らしていた。
「じゃあ、どうする?」
先生が立ち上がり、少し笑って言った。
「次は、どんな“いい書”を、書いてくれるんだ?」
その問いに、あすかがゆっくりと笑った。
「……わからへんけど、たぶん、また三人で書きます」
志津香も小さく笑って、
「次は、もっと怖がらずに書ける気がします」
そして真理子が、やさしく答えた。
「“評価される書”よりも、“私たちだけに書ける書”を、目指したいです」
神谷先生は、それに何も言わず、ただうなずいた。
そして《繋》は、再び巻かれて、包まれた。
だが今度は、それが“終わり”ではなく、“はじまり”であることを、三人は確かに感じていた。




