【第73話】あすか、筆の意味に立ち返る
書道室の扉が、きい、と小さく音を立てて開いた。
昼休み、誰もいない静かな部室。
あすかは、ゆっくりと一歩を踏み入れた。
机の上には、志津香が前日に書いた「在」の文字が、まだ置かれていた。
(あれ、やっぱ……すごかったな)
力強いのに、優しい。
静かなのに、確かに届く。
書き慣れた人の筆じゃなく、“今、書かれたばかりの思い”が宿っていた。
あすかは、そっと自分の筆を取り出す。
墨をすり、紙を広げた。
(うちは……なんのために、書いとるんやろ)
いつも、思いつくままに筆を振るった。
とにかく力いっぱい、情熱を叩きつけるように。
それが自分のスタイルだと、信じて疑わなかった。
でも――志津香の一文字を見たとき、自分の中で何かが崩れた。
「うちの書って……誰に、届いとるんやろ」
“伝えたい”って気持ちはある。
でも、“伝える”ということを、ちゃんと考えてきただろうか?
あすかは、筆を紙に置いた。
書こうとしたその瞬間、手が止まる。
(いつもなら、すぐに動くのに……)
深呼吸する。
視線を落とす。
墨の香りを吸い込んで――あすかは目を閉じた。
「うちが、書きたい言葉って、なんやろ」
思い浮かんだのは、小学校のころ。
書道教室で初めて褒められたときのこと。
先生は、こう言った。
「あすかの字には、言葉が生きてる」
その言葉に、胸が熱くなった。
誰かに伝わった。
それが、嬉しかった。
あのとき感じた“伝える喜び”。
あれが、筆を持つ意味だった。
もう一度、紙に向き直る。
墨を筆に含ませ、思い切って一文字――
「響」
線は、少しだけ震えた。
でも、その筆圧には確かな意志がこもっていた。
“響く”ということ。
自分の中の熱を、言葉に乗せて、人の心へ届けること。
それが、あすかの「書きたい書」だった。
「……これや」
書き終えたあと、あすかはしばらくその一文字を見つめた。
勢いだけじゃない。
形だけでもない。
ちゃんと「誰かの心に響くこと」を、思って書いた。
それが、自分の中ではじめての“意味ある一筆”だった気がした。
そのとき、扉が再び開いた。
「お、書いてたんだ」
真理子が顔をのぞかせる。
「昼休みやし、ちょっとな。……見てくれる?」
真理子は「響」の文字をじっと見つめたあと、静かに笑った。
「……あすかの書って、ほんとにあったかい。
前よりずっと、心にくる。……“言葉が生きてる”って、こういうのなんだろうな」
あすかは、はにかんだように笑う。
「それ、昔言われたことあんねん。先生に」
筆の意味――それは、誰かの心と心をつなぐ道具。
ただの表現じゃない、“伝える”ための手段。
あすかの“豪快な書”が、いま静かに“芯”を持ち始めていた。




