【第74話】真理子、後輩に教える日
「山下先輩、教えてもらってもいいですか?」
その声に、真理子は一瞬、手を止めた。
放課後の書道室。
机には墨と筆、そして熱心に練習する一年生たち。
そのうちのひとり――背の低い、メガネの子が、控えめに声をかけてきた。
「この“志”っていう字、何度書いてもバランスが崩れちゃって……」
真理子は戸惑いながら、彼女の書いた半紙を見た。
(“教える”って、どうすればいいんだろう)
これまで自分は“学ぶ側”だった。
志津香に学び、あすかから刺激を受け、ひたすら自分の字と向き合ってきた。
でも今日は、“伝える”側にならなければならない。
「まず、この“士”の部分を、もう少し上に持っていこうか。
そうすると、下の“心”が呼吸しやすくなる」
そう言いながら、自分で一度書いてみせる。
なるべくゆっくり、後輩が見て理解できるように。
「……すごい。線が全然違います」
その言葉に、真理子はほんの少しだけ、胸があたたかくなった。
「ありがとう。でも、技術だけじゃないの。
この字は“志す”って意味だから、自分がなにを目指してるか、
少しでも思い浮かべながら書いてみて」
後輩はうなずき、再び筆を持った。
真理子は、ふと自分自身を思い出していた。
自分が「志」を持って書いたことが、果たして何度あっただろう。
たしかに、丁寧に、正確に書いてきた。
でも、「想い」をどこまで込めてきただろうか。
後輩の筆が止まり、彼女は顔を上げた。
「少しだけ、うまく書けた気がします」
見ると、線はまだ未熟だけど、前よりもずっと“まっすぐ”だった。
字に、想いがにじんでいた。
「……ねえ、山下先輩」
「なに?」
「先輩は、どうして書道を続けてるんですか?」
唐突な質問に、真理子は答えに詰まった。
どうして――だろう。
目標のため?
大会で結果を出すため?
違う、そうじゃない。
気づけば、真理子はぽつりと答えていた。
「……たぶん、書いてるときだけ、自分になれる気がするから」
後輩は、静かにうなずいた。
そして、もう一枚、半紙を広げる。
「私も、そんなふうに書けるようになりたいです」
その言葉が、真理子の胸に残った。
教えることは、誰かに知識を渡すことだけじゃない。
その人の“まなざし”や“姿勢”に、自分自身が映されることでもある。
「……私も、まだ途中だけどね」
そう笑って言えたとき、真理子の中に、ひとつ小さな確信が芽生えていた。
――“教える”ことも、“書く”ことなんだ。
筆の先には、常に“誰か”がいる。
だから、書道はひとりきりじゃない。
その日、真理子の線は、少しだけ柔らかくなった。




