【第72話】志津香、涙の一文字
その日、志津香はひとりで書道室にいた。
放課後の廊下に、部活の声が遠く響く。
でも、この部屋の中だけは、時間が止まったように静かだった。
机の上には、一枚の紙。
筆と、墨。
それだけ。
ここ数日、ようやく筆が少しずつ動くようになってきた。
けれど、何を書いてもしっくりこない。
自分の線が、自分から遠いまま。
志津香は、自分の胸に問いかけていた。
「私は、どうして書いてきたんだろう」
評価されるため?
誰かに認められるため?
それとも――
静かに、筆を取る。
紙を見つめる。
目を閉じる。
そして、浮かんできた一文字――
それは、**「在」**だった。
志津香は、墨をたっぷり含ませて、静かに筆を下ろした。
一画一画、丁寧に。
焦らず、飾らず、誤魔化さず。
この一文字に、自分が「ここにいる」ということを刻む。
スランプであっても、迷っていても、言葉にできなくても――
私は、ここに在る。
筆を置いた瞬間、志津香の目に、じんわりと涙がにじんだ。
それは、敗北の涙でも、悔しさでもなかった。
ただ、何かが“つながった”気がした。
バラバラだった心と筆が、ふたたび一つになったような感覚。
「……書けた」
志津香がぽつりとつぶやいたその声は、ほんの少し震えていた。
そのとき、背後で小さな気配がした。
振り向くと、真理子とあすかが、そっと扉のそばに立っていた。
「ごめん、勝手に入った。ノックしたんだけど、気づいてなくて……」
真理子が申し訳なさそうに言う。
あすかは、志津香の書を見て、目を見開いた。
「……“在”。」
真理子も、一歩近づいて紙を見つめる。
余白の使い方も、線の伸びも、これまでの志津香の書とは違っていた。
もっと、柔らかくて、呼吸をしていた。
「志津香……それ、すごく、志津香の字だと思う」
あすかもうなずく。
「うん、なんか、あったかい。前の書より、心が近い気がする」
志津香は、涙を袖でぬぐいながら、苦笑した。
「ようやく、書けたの。初めて、筆を持つ自分に“嘘ついてない”って思えた」
真理子はそっと言った。
「“在る”って、一番難しい言葉かもしれないね。
でも今の志津香には、それが一番ぴったりな気がする」
しばらく、三人は何も言わず、その一枚を見つめていた。
静かで、穏やかな空気。
それは、“書けなかった日々”を超えた先にあった、かけがえのない時間だった。
涙の理由は、苦しみでも悲しみでもない。
ただ、ようやく「自分が書けた」――そのことが、志津香の胸を満たしていた。




