【第71話】「書けない」ってどういうこと?
「“書けない”って、どういうことなんだろう」
真理子は、書道室の隅の机で、ぽつりと呟いた。
そこには、あすかと志津香がいた。
誰も筆を持っていない。
ただ三人で、黙って机に向かっていた。
「筆を持ってても、紙を前にしても、書けへんことあるよなぁ」
あすかが、上向いて深いため息をつく。
「うちは、書きたい気持ちはあるんよ。でも、出てこんのや。うちの中身が」
志津香は、目を閉じたまま言った。
「私は、書こうとするほど、自分が遠くなる。
どんなに綺麗に書いても、“書いた”気がしないの」
真理子は頷いた。
最近、ふとした瞬間に“筆を取る意味”がわからなくなることがある。
真面目に取り組んで、結果も出たはずなのに――満たされなかった。
「“書けない”って、たぶん、“筆が止まる”ってことじゃないんだよね」
真理子が、ゆっくりと言葉を選ぶように話す。
「自分の中にある何かが、言葉にも線にもならなくなること。
それが、“書けない”ってことなんだと思う」
沈黙が流れる。
誰も否定しなかった。
「でもな」
あすかが、小さく笑った。
「うち、最近やっと気づいたんよ。
“書けへん”って思っとるときも、ほんまは“書いとる”んやなって」
真理子と志津香が、不思議そうに顔を向ける。
「空回りでも、紙くずの山でも、ノートの落書きでも。
それって全部、“自分と向き合っとる”証拠やろ?
それが書けとらんわけやなくて、“書こうとしとる”ことなんよ」
真理子は目を細めて微笑んだ。
「……あすか、前よりずっと静かに話すようになったね」
「うっさいな」
照れくさそうに言いながらも、あすかの声にはどこか確かな輪郭があった。
志津香は、ふと一枚の半紙を広げた。
そして、小さく息を吐いて、筆を取る。
その筆先は、ゆっくりと、たった一文字を書く。
「無」
「“書けない”を、書いてみたの。……これ、たぶん今の私」
その文字は、派手でもなければ完璧でもなかった。
けれど、紙全体に“息づかい”があった。
空白が、語っていた。
「……伝わる、な」
あすかがぽつりと言った。
「“無”でも、“ゼロ”やない。ちゃんと、“おる”って感じがする」
真理子は、自分のノートを開いた。
そこにあった走り書きを、筆に写す。
「途」
それは、途中。
完成でも未完成でもなく、今いる場所をそのまま認める文字。
「今って、“途中”なんだと思う。
どこにもたどり着いてないし、まだ見えないけど……それでも歩いてるっていう」
志津香も、あすかも、その言葉に頷いた。
「“書けない”って、悪いことちゃうんやな」
あすかがそう言って、笑った。
「たぶん、書けないことが、書ける日につながるんやな」
志津香が、小さく返した。
静かに筆が動く。
音のない“対話”が、書道室に戻ってきていた。
言葉にできないもの。
形にならない感情。
届かないもどかしさ。
それらすべてが、“書けない”を通して、確かに紙の上に残り始めていた。




