【第70話】志津香、初めてのスランプ
その日、志津香はいつものように、書道室にいた。
筆を持ち、墨をすり、紙の上に向かう。
それは、これまでの日々と何ひとつ変わらない“書の始まり”のはずだった。
――だが。
手が、動かない。
いや、正確に言えば、動かせないのではない。
動かそうとすると、すぐに“線が崩れる未来”が見えてしまうのだ。
「……違う」
紙に筆を置く前から、自分の中で“失敗”を確信してしまう。
半紙に一文字書いてみる。
その一画目が終わった瞬間、違和感に襲われる。
「これじゃない」
「こんなはずじゃない」
「こんな線、私のじゃない」
目の前に溜まっていく失敗作。
志津香はそれを、音を立てずに重ねていった。
(なんで、書けないの?)
いつもなら、少し書いていれば調子が出てくる。
でも今日は、いや、“最近はずっと”、何かが噛み合っていなかった。
「書こうとすればするほど、筆が遠ざかる……」
外部塾では、先生からこう言われた。
「志津香さん、もう“技術”は十分です。
次は、“あなたの書”が見たい」
そのとき、志津香は頷いた。
けれど、今になってその言葉がずしりと重く胸に沈んでいた。
(私の書? じゃあ、今までのこれは何だったの?)
練習帳を繰っていく。
揺るぎない構成、正確なバランス、綺麗な字。
でも――“私”がいるかと聞かれたら、わからなくなる。
自分が書いてきた書が、急に“空っぽ”に見えた。
そのとき、後ろから声がした。
「……志津香?」
真理子だった。
志津香は、視線だけを向けた。
「なにか、違和感ある?」
「……うん。書けないの」
「珍しいね、そんなこと言うの」
志津香は苦笑した。
「正確な線は引ける。でも、書けないの。
“志津香らしい”って言われるけど……その“らしさ”が、わからなくなった」
真理子は、しばらく黙っていた。
それから、一枚の紙を手渡す。
そこには、真理子が書いた「空白」という一文字があった。
「これ、昨日書いたの。
“何もないこと”を、ちゃんと書いてみようと思って。
余白を、余白のままにするって、すごく勇気が要るけど……
今の志津香にも、“何もない”を受け入れる時間が、必要なのかもしれない」
志津香は紙を見つめた。
何も詰め込まれていない。
でも、その中に確かに“真理子”がいた。
「……私、ずっと、完成された線ばかり求めてた。
それで、いつの間にか、“感情”や“私らしさ”から目をそらしてたかも」
その呟きは、自分自身への手紙のようだった。
「少し、休んでみようかな」
「うん、それがいい。書かない時間も、書のうちだよ」
志津香は、静かに深呼吸した。
はじめて、“筆を握らない勇気”を、自分に許した。
スランプ――それは、喪失ではなく、変化の兆しかもしれない。




