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筆の軌跡 **「未」**  作者: 南蛇井


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【第63話】真理子、街の書道教室へ

その教室は、商店街の裏手、昔ながらの民家の一室にあった。


 看板には「浜乃書道教室」と小さく墨字が書かれている。

 玄関に入ると、畳のにおいと墨の香りがふわりと混ざっていた。


 


 「こんにちは。山下真理子です……見学希望で……」


 中にいた白髪の女性が顔を上げて、やさしく微笑んだ。


 「あら、よく来たね。浜乃です。どうぞ、そこに座って」


 


 教室には、四、五人の生徒がいた。

 どれも自分の親世代か、祖父母世代と思われる人たち。


 皆、黙々と筆を動かしている。

 けれど、その空気には、どこか“静けさの強さ”があった。


 


 真理子はおそるおそる半紙を広げ、持参した筆を手に取った。


 


 (ここでは、何を書いたらいいんだろう)


 


 すると、浜乃先生が静かに声をかけた。


 「最初は、自分の“好きな言葉”を書いてごらん」


 


 “好きな言葉”。

 そう言われて、真理子は少し考えた。

 書道部で書いてきたのは、課題の四字熟語やテーマに沿った一文字。

 でも、“自分の好き”で選んだことはあっただろうか。


 


 彼女は、筆を紙に落とした。


 〈澪〉

 それは、以前志津香が書いていた詩の中にあった字。

 水が浅く流れる、その柔らかな音のイメージが好きだった。


 


 「いい字ね」


 後ろから、浜乃先生の声がした。

 「“流れても、ぶつからない”って感じがする。あなたの気質が出てるわ」


 


 (気質……)


 真理子は、胸の奥がふわっとした気持ちになった。


 うまい、きれい、迫力がある――

 そういう評価じゃない。

 “字”を通して“自分”を見てもらった気がした。


 


 隣の席では、おそらく七十代の女性が、「慈」という字を丁寧に書いていた。

 線のどれもが、ゆっくり、たしかに、筆を運んでいる。


 


 「お孫さんに書いてるの?」と誰かが聞くと、

 その女性は少し笑って「いや、自分のため」と答えた。


 


 (自分のために書く……)


 競い合うでもなく、発表するでもなく。

 ただ、自分の心と向き合い、紙に落とす。

 それは、今までの真理子にはなかった書き方だった。


 


 その日、真理子は「澪」のあとに「聴」「灯」「穏」といった静かな言葉を三枚ずつ書いた。


 


 教室の終わり、浜乃先生が声をかけてくれた。


 「書道ってね、“自分がどう在りたいか”を書くものでもあるの。

  急がなくていい。焦らなくていい。

  書くことで、自分に気づければ、それで十分」


 


 真理子は深くうなずいた。

 部活では得られなかった、ゆったりとした呼吸が、ここにはあった。


 


 帰り道、練習帳にこう書いた。


 〈澪のように、静かに進みたい〉


 それは、誰かに見せるための言葉じゃない。

 でも確かに、自分の本音だった。


 


 その夜、志津香とあすかのグループチャットに、真理子は一枚の字を送った。

 「今日書いた“澪”。よかったら見て」

 すると、すぐに返ってきた。


 志津香:「優しい字。すごく、真理子らしい」

 あすか:「めっちゃ“水”って感じ! 好きやわ」


 


 その言葉に、胸の奥が、じんわり温かくなった。


 


 (わたし、このままでいいのかもしれない)


 焦らなくても、比べなくてもいい。


 ――筆が、自分を教えてくれる。



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