表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
筆の軌跡 **「未」**  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

62/150

【第62話】あすか、独りの練習帳

夕暮れの光が窓から差し込むとき、書道室には一人だけ人影があった。


 天童あすか。

 誰より豪快に筆を振るい、誰より感情のままに線を引く女。


 そのあすかが、静かに筆を持っていた。


 


 「……はあ」


 あすかは、大きく息を吐いた。


 目の前の紙には、何十という“壊れかけた言葉”たちが重なっていた。

 “破”という字。“衝”“叫”“砕”――

 どれも、線がはみ出し、墨が飛び、紙がしわくちゃになっていた。


 


 「なんかちゃうねんな……」


 呟く声だけが、がらんとした部屋に落ちる。


 


 志津香は外部の塾へ通いはじめた。

 真理子も街の書道教室で新しい刺激を受けているらしい。


 でも、あすかはそれを選ばなかった。


 自分の字を、自分で育てたい。

 誰かに「正しさ」を押しつけられたくない。

 そう思ったから。


 


 でも――


 (それって、ただの“逃げ”なんかな)


 


 あすかは壁際のロッカーから、何冊も重ねた練習帳を取り出した。

 分厚いスケッチブックのようなノートに、彼女はずっと筆で書いていた。


 それは“課題の書”ではない。

 彼女が勝手に選んだ言葉、意味、音。

 ときには歌詞、ときには漫画の台詞、ときにはただの怒りや喜び――


 


 その日、あすかは、こんな文字を書こうとしていた。


 〈叫べ〉


 


 最初の一画、腕の筋肉を感じるような大きな払い。

 二画目、思い切り縦に落とす。

 筆先が少し割れたが、その“荒れ”が逆に気持ちよかった。


 けれど、途中で筆が止まる。


 


 (“叫ぶ”って、どんな字や……?)


 自分の中の感情を、ただ大声にしたいわけじゃない。

 でも、叫びたくなるような何かが、自分の中にある。

 それが“字”になるかどうかは、わからなかった。


 


 あすかは、一度深呼吸をした。


 そしてもう一度、紙を前にする。

 墨をたっぷりと含ませた筆で、今度は勢いのままに書いた。


 


 〈叫〉


 それは、決して整ってはいなかった。

 バランスも悪い。筆先も割れている。

 でも、書いたあとに、涙がにじんできた。


 


 「……あかんやん。なに泣いてんねん、あたし」


 あすかは袖でぐいと目をこすった。


 


 (独りで書くって、自由やけど、孤独やな)


 でも、それでも、書きたい。

 誰かに見せなくても、自分が納得したくて書く。

 その気持ちだけは、ずっと変わらなかった。


 


 夜になりかけて、書道室の扉が開いた。


 「……あすか?」


 真理子だった。


 「まだ書いてたんだ……ていうか、泣いてる?」


 「泣いてへん。汗や」


 


 「うそつけ、冷房入ってるのに」


 ふたりは顔を見合わせ、苦笑した。


 


 「……なあ、真理子。

  あたしの“叫”って、なんか伝わる?」


 そう聞いたあすかの声は、珍しく不安げだった。


 


 真理子は、書かれた紙をしばらく見つめたあと、

 ゆっくり頷いた。


 「うん、わかるよ。

  うるさいくらいに伝わる。

  でも、それが、あすかの字なんだって思った」


 


 その言葉に、あすかはまた少し泣きそうになった。

 でも、もう袖では拭かなかった。


 


 (独りで書くことを選んだのは、自分や)

 (でも、見てくれる誰かがいてくれるなら、まだ大丈夫)


 


 その夜、あすかは練習帳にもう一文字だけ書き足した。


 〈共〉


 ――叫ぶことと、誰かといることは、きっと両立する。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ