【第59話】顧問の叱責
梅雨の湿気は、心にも染み込んでくるらしい。
六月半ば、曇天の放課後。
書道室の空気は相変わらず重たかった。
誰もが席に着いているのに、誰の筆も動かない。
紙は白いまま、墨は減らない。
机の上には、ただ道具が並んでいるだけだった。
扉が音を立てて開いた。
「……ちょっといいかしら」
入ってきたのは、顧問の村尾先生だった。
いつもの淡いベージュのジャケットを羽織り、眼鏡の奥の視線が、少し鋭い。
「最近の活動について、少し話があるの」
その声に、三人は同時に姿勢を正した。
村尾先生は、部室の真ん中に立って、無言の時間を作った。
そして、ゆっくりと、言葉を紡ぎはじめた。
「私ね、この部を見てて、思うのよ」
「うまくなろうと頑張ってる子。誰かに負けたくなくて焦ってる子。自分の書き方を探してる子。みんな、すごく真面目。
でも――」
そこで言葉が切れる。
「“書かない”まま、座ってるのは、努力とは言わないわ」
声が一段、鋭くなった。
「今日で、三日目よね。筆を持たずに、ただ“いるだけ”の部活。
そんなの、あなたたちが一番、悔しいんじゃないの?」
あすかが息を呑んだ。
「……でも、どうしたらええか、わからへんのや」
かすれた声で、あすかが言った。
「書いたら書いたで、誰かの目が気になって……“自分の字”が、だんだんわからんくなって……」
机の上の紙を睨むように見つめながら。
「私だって、書きたいです」
志津香が静かに続いた。
「でも、“これじゃだめ”って、自分の中の声が止まらないんです。
書く前から否定されるようで……こわいんです」
「……私は」
真理子が口を開いた。
「私だけが“ちゃんとできてない”気がして……
二人の間に立つと、どっちにもなれない自分が情けなくて……何を書いても“浅い”って思ってしまう」
村尾先生は、三人の言葉を黙って聞いていた。
そして、机の上にあった墨壺を一つ手に取り、墨を摺りはじめた。
その音は、しんとした室内に優しく響いた。
「書けなくなるときって、あるわよ。誰にだって。
私だって、あなたたちの年の頃は、同じだった」
摺りながら、先生は続ける。
「でも、“書かない理由”を探しはじめたら、終わりなの。
怖くても、書いて。悩んでも、書いて。
下手でも、悔しくても、とにかく筆を紙に落とすの。
そこからしか、“あんたたちの字”は生まれない」
それは、怒りではなかった。
でも、誤魔化しの効かない真っ直ぐな言葉だった。
「さあ、誰でもいい。今日は一文字でいいから、何か書いてみなさい」
村尾先生は筆を置いた。
真理子が、そっと手を伸ばした。
墨をつける手が震えている。
けれど、その震えごと筆は紙に触れた。
彼女が書いたのは――
〈歩〉
「……いい字じゃない」
先生はぽつりと言った。
続いて、あすかが筆を取った。
志津香も後を追った。
その日、書道室に久しぶりの筆の音が戻ってきた。
それはまだ、よちよちとした音だったけれど、
確かに前へ進みはじめた、三人の“再出発の音”だった。




