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筆の軌跡 **「未」**  作者: 南蛇井


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【第58話】筆が触れない日々

書道室の扉を開けると、そこにはいつも通りの机、椅子、硯、そして墨の匂いがあった。

 だけど、少しずつ何かが変わってきている。

 机は整っているのに、筆が動いていない。

 誰もがそこにいて、誰もが書いていない。


 


 「今日は何書くん?」

 何気なくあすかが真理子に聞いた。

 言葉に重さはなかった。

 ただ、音のない空間に何かを落としたかっただけだった。


 「……まだ、決めてない」

 真理子はそう言いながら、半紙の端に手を置いたまま、筆を取らなかった。


 


 志津香も同じだった。

 机には筆と硯が置かれているのに、ただページをめくるだけで、何も書こうとはしない。

 集中しているふりをしながら、目線はどこか遠くを見ている。


 


 (筆を持てないのは、なぜだろう)


 あすかは自問していた。

 書きたい言葉がないわけじゃない。

 墨がすれていく音も、紙にぶつかる筆先の感触も、好きなはずなのに――


 


 書こうとすると、胸の奥がきゅっと締まる。


 (この一枚に、誰かの目がついてくる気がする)

 (何を書いても、志津香に評価されるような気がする)

 (逆に、志津香の字にあたしの目が向いてる)


 そのことが、怖かった。


 


 「……あのさ」

 不意にあすかが口を開いた。


 「最近、うちら、あんまり話してへんよな」


 言葉が落ちたあと、静寂がしばらく続いた。


 「……そうだね」

 志津香がぽつりと返した。


 「でも、話すことってある?」

 続く言葉に、あすかは少し息をのんだ。


 


 「別に、仲が悪いとか思ってへんよ。

  けど、何書いたらええか、わからへんねん。

  志津香が完璧に書いてるの見ると、なんか、自分の字がちゃっちく思えてくるんや」

 あすかの言葉は、不器用だったが真っ直ぐだった。


 


 志津香は、手を止めた。

 そして、小さく息を吐いた。


 「……私も、怖いよ」

 「え?」


 「“書けなくなる”のが、一番怖い。

  評価されるとか、されないとか、それ以前に、

  自分の手が止まってしまうのが一番、嫌なの」


 


 真理子は、その会話を聞きながら、自分の心に湧いてきた思いを確かめていた。

 (ああ、そうなんだ)

 (みんな、書けてないんだ)

 (私だけじゃない)


 


 そして――


 「今日は、書かなくてもいい日なんじゃないかな」

 真理子が言った。


 「書きたいって気持ちが戻ってくるまで、無理に筆を持たなくてもいいと思う」


 


 志津香がゆっくりとうなずいた。

 あすかも、小さく笑った。


 「ほな、今日は“書かん部活”にするか」


 


 三人は、そのまま机に座り続けた。

 墨は乾き、紙は白いままだった。


 けれどその空間には、少しだけ柔らかい空気が戻っていた。


 筆が触れなくても、心が動いていれば、それは前進なのかもしれない。

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