【第60話】自分を嫌いになりそう
朝の書道室には、前よりも少しだけ風が通っていた。
誰も口には出さなかったけれど、三人はなんとなく、昨日の村尾先生の叱責を引きずっていた。
でもそのおかげで、筆は机の上に出ていたし、紙には昨日の練習跡がまだ残っていた。
「今日は、なんか書いてみる?」
あすかが真理子に聞いた。
声には無理やりの明るさがなかった。
ただ、そっと差し出すような、そんな声だった。
「うん……うん、そうする」
真理子は頷いた。
けれど、筆を持った手は重い。
(あの字、昨日の〈歩〉……本当に、いい字だったのかな)
先生は褒めてくれた。あすかも志津香も、静かに笑ってくれた。
でも、それが「慰め」じゃなかったって、自信を持って言えるほど、自分は強くない。
筆を紙に落とす。
最初の一画、二画――何かがずれていく気がした。
形を整えようとするたびに、線が死んでいく。
「……だめだ」
呟きが漏れた。
紙を裏返し、もう一枚。
書いて、捨てて、書いて――また捨てる。
何枚目かもわからなくなった頃、真理子は、ふと筆を止めた。
(こんなふうに、自分の字を嫌ってばかりいたら、
いつか“自分自身”まで嫌いになりそう)
その思いが、胸の奥を締めつける。
逃げたくなるような気持ちだった。
「……真理子」
志津香が声をかけた。
「見せて」
「……え?」
「今の字、見せて。捨てないで」
真理子は少し戸惑ったが、しわくちゃになりかけた一枚を差し出した。
志津香はそれを丁寧に広げて、じっと見つめた。
「……この“空”って字、ちょっと歪んでるけど、でも、目を引く」
「え……そう?」
「真理子の字って、正確さより、感情がある。
いいとか悪いとかじゃなくて、ちゃんと“そこにある”って感じがする。
私は、これ、好き」
ぽつりとしたその言葉に、真理子の胸がじんわりと熱くなった。
あすかも、背後からのぞき込んできた。
「なんやろな、真理子の字って、“見たくなる”んよ。
志津香の字は“すごっ”って思うし、うちは“ドーン!”ってなるけど、
真理子の字って、じーっと見てたくなる」
「……ありがとう」
真理子は、唇をぎゅっと結んで、ようやくそう言った。
(嫌いになりかけた自分を、少しだけ許せる気がした)
きれいじゃない。
うまくない。
でも、誰かが見てくれた。誰かが、好きだって言ってくれた。
それだけで、もう一度だけ書いてみようと思えた。
彼女は新しい半紙を取り出す。
そして、筆をゆっくり墨に浸しながら、心の中でそっと言った。
(大丈夫、まだ嫌いにならなくていい)
その日、書道室にはまた一枚、新しい文字が生まれた。
形は不格好でも、その字には確かな“自分”が刻まれていた。




