【第53話】真理子の焦燥
早朝の教室。
まだ誰も来ていない時間に、真理子はひとりでノートを開いていた。
小さな練習用の半紙に、縦一列に並んだ漢字。
気を抜けば、すぐに右に傾く線。
弱い止め、浅い払い。
昨日も同じミスをしていた。
(どうして、うまくならないんだろう)
書き直しても、書き直しても、結果は同じ。
あすかのような勢いも、志津香のような正確さも、自分にはない。
あるのは、ページを埋め尽くす“繰り返し”だけ。
(私、ちゃんと、進めてる?)
放課後。
書道室に顔を出すと、すでにあすかが後輩たちに囲まれていた。
「ここはな、思いっきり行ったれ! それで破れたら、その紙はお前の“勝負の紙”や!」
あすかの言葉に、後輩が笑っていた。
場が明るくなる。
みんなが楽しそうだった。
その横で、志津香が冷静にアドバイスを送っていた。
「力を抜いて、手首の軌道を意識してみて。筆が紙に“乗ってる”感覚をつかむといいよ」
すっと筆が走る。
ひと文字が、まるで計算されたように美しく浮かび上がった。
その光景の中に、自分の居場所が見えなかった。
(教えられない。導けない。誰かの“参考”にもなれない)
(私は……ただの、書き続けてるだけの人)
「真理子、これ、見てくれる?」
後輩に声をかけられた。
「……うん、見せて」
微笑んで、紙を受け取った。
けれど、目の奥では、自分の文字との違いをまざまざと感じていた。
(この子の字の方が……、もう私よりきれい)
帰り道。
真理子は、手提げに入れたノートの重さが、いつもより苦しく感じた。
(あすかみたいに強くなれない)
(志津香みたいにうまくなれない)
(それでも私は……)
家に着くなり、机に向かって筆を取った。
でも、手が動かなかった。
筆の毛先が、空を切るだけ。
(どうして……書きたくないって、思ってる)
初めての感覚だった。
努力だけじゃどうにもならない壁に、額をぶつけるような息苦しさ。
その夜。
ノートを閉じて、真理子は何度も深呼吸した。
心の奥底から出てきたこの感情に、自分自身が驚いていた。
(こんな気持ち、誰にも言えない……)
けれど――
それでも明日、真理子はまた書道室へ行くだろう。
悔しさも、情けなさも、嫉妬も、全部を抱えて。
書くことでしか、自分と向き合えないから。
“焦燥”は、たしかに彼女の中にある。
でもそれは、止まってしまわないための、心の熱でもある。




