【第52話】志津香、遠ざかる距離
四月の終わり。
新入生がちらほら見学に顔を出し、書道室にもにわかに活気が戻ってきていた。
「ちょっと線が硬いなー。力入れすぎたか」
「字の中心がブレてる……真理子、これ見てくれる?」
あすかと真理子が、部活の合間にそんなやりとりをしているなか――
志津香はその輪の中にいなかった。
「今日は、志津香来ないの?」
真理子がぽつりと聞いた。
「うん……“塾に行くから”って。週2で通うって言ってた」
あすかは、なるべく気にしてないふうに答えた。
でもその声は、少しだけ棘を含んでいた。
志津香が通い始めたのは、隣の市にある私塾。
全国レベルのコンクール入賞者を輩出している、名の知れた書道塾だった。
「もっと外の世界を見たい」
そう言って笑った志津香の表情が、妙に遠くに見えたのを、あすかは思い出していた。
(あいつ、何考えてんのかな……)
(うちの字じゃ足りないのはわかってる。けど、“今ここ”にいるって、そういうことちゃうん?)
ぶつけようのない思いが、あすかの中で燻っていた。
週が明けた火曜日。
久しぶりに志津香が部室に姿を見せた。
「おー、久しぶり!」
あすかが声をかけると、志津香は軽く手を挙げて返した。
「塾、どう? なんかすごいって噂やけど」
「うん……すごい。いろんな人の書き方を見れるのが、刺激になる」
「へー……」
言葉はそれ以上、続かなかった。
真理子は黙って二人を見ていた。
“いつもの空気”じゃない。
少し、温度が違う。
その日の練習のあと。
志津香は、すぐに筆を片付けて、また塾へと向かう準備をしていた。
「志津香」
真理子が呼び止めた。
「うちらと、一緒に書かなくなるの?」
志津香は、驚いたように目を見開いた。
「……そんなつもり、ないよ。塾に行くのは、自分のため。でも、部活をおろそかにする気はない」
「でも、最近ずっと一緒に書いてないよ。志津香の線、少し前と違う」
志津香は、言葉に詰まった。
「私は……“もっと上手くなりたい”って、思ってる。
この部のために、じゃなくて、“自分の書”のために、だよ」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
あすかが、ゆっくり口を開く。
「……うち、そっちの志津香もわかる。
でも……なんか、寂しいな。ずっと一緒に走ってきたのに、気づいたら“別のレール”に乗ってるみたいでさ」
「……ごめん」
志津香の声は、小さかった。
その日、三人はいつもより少し早く書道室を出た。
同じ方向に歩いていながら、心の距離はどこか、ほんの少しだけ遠かった。
遠ざかっていくのは、ただの物理的な距離じゃない。
心の中の“軸”が、ほんの少しだけズレてきたことに、誰もが気づいていた。
そして、そのズレは――次第に、すれ違いへと姿を変えていく。




