【第45話】志津香、冷たい筆跡
春を告げる雨が、窓を淡く濡らしていた。
書道室には静かな筆音だけが響いていた。
志津香は、黙々と書いていた。
流れるように美しく、滲み一つない正確な運筆。
誰もが賞賛する、その“完璧な字”。
だが――
「……志津香の字、ちょっと、冷たいかも」
ふと漏れたあすかの言葉に、筆先が止まった。
「……冷たい?」
志津香がゆっくりと振り返る。
「あ、ごめん。うまく言えないんだけど……綺麗すぎて、触れられないっていうか。
見惚れるけど、“近づけない”って思っちゃった」
真理子がフォローするように言う。
「私も、なんか“整いすぎてる”って感じた。
志津香の字って、本当に完成されてるんだけど……だからこそ、“人”が見えにくいっていうか」
志津香は何も言わず、しばらく黙っていた。
手元の紙を見つめる。その上には、見事な筆致で書かれた〈継〉の文字があった。
(……そうか。私は“間違えない”ように、“美しく”あろうとしてきたんだ)
(その結果が……“冷たい”)
放課後、志津香は一人残って書道室にいた。
何枚も紙を並べる。
完璧な線。しかし、そこには何かが欠けていた。
(私は、誰のために書いているんだろう)
(見てもらいたかった。認められたかった。だから、美しさを突き詰めてきた)
でも――
その美しさが、誰かの心に届いていないなら、意味があるのだろうか。
翌日。
志津香は一枚の新しい半紙を広げた。
筆を持つ手が震える。
(恐れずに、自分を出す。整わなくていい。綺麗じゃなくていい)
ゆっくりと、一画ずつ、書き進めていく。
心が、筆を動かす。
感情が、線に乗る。
書き上げた一文字――〈声〉
それは、どこか揺れていた。
でも、優しく、あたたかかった。
その日の放課後。
志津香がその作品を二人に見せると、真理子が言った。
「……さっきより、ずっと“近い”気がする」
「うん。線に、気持ちがある。すごくいいと思う」
あすかも、まっすぐ志津香を見て言った。
「志津香の字って、やっぱり特別だよ。でも今日の字は、“ちゃんと届いた”って思えた」
志津香は、小さく笑った。
「ありがとう。……うれしい」
“冷たい”と言われた昨日から、何かが変わった。
完璧じゃなくてもいい。
届かない美しさより、伝わる温度。
それが、“私らしい字”なのかもしれない――
雨は止み、夕焼けが差し込む。
志津香の筆跡には、ほんのりと、春のぬくもりが滲んでいた。




