【第46話】真理子、ノート一冊使い切る
三月の風が、少しだけ春の匂いを運んでいた。
書道室の窓から差し込む光が、机の上のノートを照らしていた。
それは、薄くよれた表紙の大学ノート。
角は折れ、ところどころインクの滲みが残っていた。
山下真理子が、書道部に入った春からずっと使い続けてきた練習帳――。
まもなく、その最後のページにたどり着こうとしていた。
「……もう、ここしか残ってないんだな」
真理子は小さくつぶやいた。
誰に聞かせるわけでもない、独り言だった。
あすかのような爆発的な勢いもない。
志津香のような圧倒的な技巧もない。
ただただ、真理子は書き続けてきた。
一画一画をなぞるように、迷いながら、諦めずに。
その日の放課後。
書道室に三人がそろった。
真理子はいつも通りに筆を持ち、深呼吸を一つした。
(うまく書こうとしなくていい。
これは“練習”なんだから。……でも、“今の私”を残したい)
最後のページに、筆を下ろす。
〈歩〉
それは、ごく普通の、特別ではない字だった。
けれど――どこかに、確かに“歩んできた時間”の匂いがあった。
「……終わった」
真理子は、筆を置いた。
ノートの最後のページをめくり、閉じる。
そこに記された約300ページ。
日付と書体と、試行錯誤の跡。
「真理子、それ……」
気づいた志津香が声をかける。
「うん。このノート、全部使い切ったの。入部したときから、ずっと書いてたやつ」
「うわ、すごいな……!」
あすかが驚きと感嘆を混ぜた声を出した。
「見てもいい?」
「うん、どうぞ」
あすかがページをパラパラとめくる。
真理子の字が、少しずつ変わっていく。
硬さ、滲み、迷い、そして……どこかに、芯のようなものが宿っていた。
「……全部のページに、真理子の“歩幅”があるんだな」
志津香がつぶやいた。
「歩幅?」
「うん。焦ってない、でも止まってもいない。ひとつひとつ、ちゃんと積み上がってる。
それが、“真理子の字”になってる」
真理子は少し照れくさそうに笑った。
「……私、ずっと自分の字に自信なかった。
でも、こうやってノートがいっぱいになったら、ちょっとだけ思えたんだ。“ここまで来た”って」
「それで十分だよ」
あすかが優しく言った。
「すごいよ、真理子。
その一冊、うちじゃ絶対書けない。……書くことって、続けることなんだな」
志津香も頷いた。
「真理子の“積み重ね”があるから、今の書道部はちゃんと“立って”る。……ほんとに、ありがとう」
真理子の目に、少しだけ涙が浮かんだ。
でも、それは悲しさでも感傷でもない。
誇りだった。
机の上には、書き終えたノート。
そこに詰まっていたのは、失敗や迷い、そして「書き続ける勇気」だった。
真理子はその日、ようやく“自分の書”に、少しだけ胸を張れるようになった。




